明和九年(1772)の道しるべ(東大和市)

明和九年(1772)の道しるべ(東大和市)
 
雲性寺の前庭にまつられる石塔の中に、坂東・秩父・西国百ヶ所巡礼供養塔(高さ75㌢)があります。
この塔の両側面が道しるべになっています。

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一番右側の奥が今回紹介する道しるべです(他所から移動)。

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正面
 
前側に六十六部廻国供養塔(安永6年・1777)があり、斜めからの撮影をお許し下さい。
 
坂東  明和九天   武蔵多摩郡
秩父 百ヶ所巡礼供養塔
西国  辰二月大善日 奈良橋村
 
明和九年(1772)の建立で、道しるべとしては東大和市内では2番目に古い碑となります。
巡礼供養塔については別に書きます。
 
右側面

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右 ところ沢 川こゑ(川越)道
 
当時、所沢、川越にはいずれも市場(いちば)があり、村人にとっても近隣の村人にとっても、経済的な結びつきが強い地でした。
また、両所とも宿場を形成し、経済活動と共に、長距離に及ぶ旅の一夜を過ごす人々の憩いの場となっていたと伝わります。
道しるべの立つ場はその通過点でした。 
 
左側面

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左 やまくち みかしま道
 
山口、三ヶ島は当時は村の名前でもありました。併せて
・山口の観音様、三ヶ島の妙善院(狭山三十三観音の結願寺)
・中氷川神社など山口、三ヶ島への寺社の参詣
・同時に、扇町屋、所沢、川越方面へつながるため、
 日常品の市と共に養蚕、織物などの農間稼ぎで賑わいました。
 
どこにたてられた
 
この道しるべ、現在は雲性寺にまつられて居ますが、最初はどこにまつられたのでしょうか?
幾つかの場が浮かんできます。
 
右 ところ沢 川こゑ(川越)道
左 やまくち みかしま道
 
と行き先が刻まれていて
・建立者は個人ではなく「奈良橋村」です。
・「山口・三ヶ島」と「所沢・川越方面」に分かれる道筋です。
・当時の交通路から、狭山丘陵南麓ではなく、貯水池に沈んだ区域との意見が多いです。

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八幡神社から周囲道路へと登ってきた所です。
正面の柵の向こうに、村山貯水池に下る道路跡が見えます。

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下の図①付近の現状です。
②③はこの位置から更に村山下貯水池の湖底に沈んだ地域です。

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取り敢えず、3つの候補地に絞りました。
・貯水池に沈んだ区域に居住していた奈良橋村の村人は体操年代の移転時には5軒でした。
・奈良橋地域の多くの村人は丘陵南麓の地域に住んでいました。
・しかし、南麓には、山口や三ヶ島、所沢や川越と分かれる道は考えにくいです。
・そこから、村山下貯水池に沈んだ区域を3箇所あげて見ました。
 
古老は語ります。
「いずれにしても三角地よ」
「道の交わる三角地にはよ、神様が居なさる。
 そんで、トキトシチャ(時には)悪さするアニカ(何か)が出んベエ、
 そんだァから、でえじ(大事)にしたのよ」
「供養塔はよ、そこにまつって、無事を祈ったのよ」
「休み場もあったんべから、ちょっとした高みで、(碑は少し高いところにあって)
 田や畑中(はたなか)だったかもしんねんな」
 
大変な時期
 
この道しるべの建てられた頃は、天候異変が続き、食糧難に陥る反面、
玉川上水への通船の願い出が開始されるなど、新しい時代への変化を告げる時でした。
その様子は東大和市の略年譜にまとめました。
 
(2023.07.22.記 文責・安島喜一)