奈良橋庚申塚の道しるべ(東大和市)

奈良橋庚申塚の道しるべ(東大和市)
 
東大和市の中央部、かっての江戸街道と青梅街道が交差する場です。
「庚申塚」があり、道行く人々の憩いの場であり、道しるべを刻む庚申塔がまつられていました。

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道しるべは台座の中央部に刻まれています。
かすかに 東 江戸道 が読み取れます。
 
道しるべ・庚申様がまつられて居た場所
 
市の中央部を横に走る江戸街道、縦に走る青梅街道の交差点です。
江戸街道は新青梅街道と名を改め、道幅も広くなり、景観はすっかり変わりましたが
「奈良橋庚申塚」と呼ばれる地名を残し、現在も使われています。

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・江戸時代初期には
・江戸城建設に使われた石灰が青梅成木から運ばれ
・中期には、農間稼ぎの村人一団が足早に行き来して
・多くの旅人が武蔵、相模、入間へと足を運んだ道筋の交差部です。

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現在、交番となっている場所付近に庚申塚がありました。
 
道しるべ
 
道しるべは庚申塔の台座に刻まれています。

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庚申塔
右側面 武州多摩郡村山郷奈良橋村 施主講中
正面  六臂青面金剛像
左側面 享保十六年(1731)亥霜月吉祥日
     願主 法印伝翁
 
台座
現在では、表面の摩耗、劣化が進み、ほとんど読めなくなりました
昭和46年(1971)に刊行された『東大和市生活文化財調査概要報告書』(p106)では
次のように刻まれていたことが記録されています。
 
正 面 東 江戸道
右側面 北 くわんをん道
左側面 南 府中道
    西 右 中藤(武蔵村山市)
      左 青梅
 
道しるべの示す江戸時代の道路
 
道しるべに刻まれた道筋は主要道の結節点だけに、関連する多くの道があります。
道路の形や周辺の風景は全く変わっていますが、
享保十六年(1731)当時の道筋がそっくり残され、
現在に引き継がれています。

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⑤の江戸道は、東村山市の九道の辻を経て江戸への直通道でした。
①の府中道は現在、青梅街道となっています。かっての武蔵府中への主要道です。
④②くわんをん道は奈良橋八幡神社の脇を通り、貯水池の湖底に沈んだ旧村を経て山口観音への道です。
 中藤への道は横街道、四ッ街道とも呼ばれ狭山丘陵の麓への近道でした。
 ⑤の道筋と併せ青梅方面との交流が行われました。
⑤の青梅道は江戸時代初期には「石灰の道」で、「御用石灰」の旗をたてた荷車が往来した道でした。
 やがて、玉川上水、相次いで野火止用水の完成(明暦2年・1656)にともない
 石灰運送の中継ぎ場・小川村の成立により、交通の大きな流れは⑥の江戸街道に変わります。
 
庚申様はこの動きを最初からご覧になり、村々を始め旅人の願いに応え
道しるべはその安全を図ってきたのでした。
 
台座の現況
 
道筋の刻まれた台座からは、残念ながら文字は読めなくなりました。

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台座正面 東 江戸道 と刻まれていたと記録されますが、殆ど読めません。

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右側面 北 くわんをん道 と刻まれていたと記録されますが、殆ど読めません。

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左側面 南 府中道 
      西 右 中藤
        左 青梅北 くわんをん道
と刻まれていたと記録されますが、殆ど読めません。
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庚申塔の現在の所在地・雲性寺
 
庚申塔は 昭和40年(1965)代に、道路拡幅のため旧地を離れ、
現在、奈良橋・雲性寺にまつられています。
中央階段左側に4つの碑があるところです。

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雲性寺中央石段左側

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道しるべの庚申塔は中央、屋根付きの塔です。
 
かっての主要な交通路の中心点にまつられて居た庚申塔の道しるべ、
その当時の姿を紹介したいです。
旧江戸街道(現新青梅街道)の画像をお持ちの方、
是非、お教えくださるようにお願い致します。
 
 (2023.07.11.記 文責・安島喜一)