行人塚(ぎょうにんづか)
村山貯水池に沈んだ地域に東大和市周辺では珍しい姨捨山(うばすてやま)に近い伝承があります。『東大和のよもやまばなし』から紹介します。
「湖底に沈んだ村の南側に続く狭山丘陵の中に、大筋端という所があり、その山の中に塚がありました。村の人びとはこの塚を「行人塚」と呼んでいました。
昔、ここは足腰の立たなくなった老人や、行きだおれの病人達が、静かに死を待つ場所であったという言い伝えがあります。江戸時代まで、ここには風化された人骨があったとか、夜など死人の怨念が人魂になって飛ぶのを見たとか言う人もいたそうです。
いつ頃のことかさだかではありませんが、元禄の頃といわれていますが、一人のお坊さんがここを通りかかり、あまりに悲惨な様子を悲しみ、里人達にその供養をたのみました。
「私が打つ鉦(かね)の音を聞いたら、里人よ山にのぼってきて死体をねんごろに葬ってほしい」
と。それからというものお坊さんの打つ鉦の音が山合いにひびくと、里人達は山に登って死人を手厚く葬るようになりました。
それから誰いうとなく、この塚のことを、「行人塚」と呼ぶようになったそうです。この話は親から子へ、子から孫へと言い伝えられてきたのでしょう。明治になってからもまだ人魂が出るとか言って、あまり人が近寄らなかったようでした。
幸い、大筋端と云われる地名が「大筋端公園」として西武団地付近に残されています。
その地を手がかりに、古い地図を辿ると浮かんでくるのが、湖底に沈んだ杉本と内堀の集落です。1100年代からの古村です。
狭山丘陵が刻んだ谷ッが大きく入り込んだ地に、小沢池はありました。江戸時代には古沢池と呼ばれ、面積3千余坪と伝えられる大きな池でした。下流の廻田地域の田をも潤す貴重な田用水でした。
周辺は「往古は松柏密生し」と記されるほど松林で覆われ、幕府の御料林があったと伝えられます(『狭山之栞』p38)。
池の脇を小径が通り、丘陵の峰峯を連ねる道筋(大筋、現在の周囲道路)に出て、そこは若干広い場をつくっていました。この高台を大筋端と呼びました。そこから、二ッ池、或いは杉本坂に出て、廻田谷ッ、後ヶ谷村に出て、南麓の村と交流したと考えられます。この往復の途中の林の中に見られたのが行人塚でした。塚は現在も、貯水池内にあるとされます。
東大和地域内の村々は、一例を挙げれば、天保8年(1836)の飢饉の際に、飢人率が80%前後であったと記録される程の生活環境が厳しい村でした。その中で伝えられる塚の話に圧倒されます。
狭山丘陵周辺の各地には丘陵内に同様の塚が多くあります。
道標、庚申塔や馬頭観音をまつる塚であり、十三塚を構成する場合もあります。それが、この地では他にない、姥捨てに近い内容の伝承となっています。
しかも、里山で、人家からそう遠くありません。村人達の往来も充分に考えられます。そのような場所に、何故この話が伝わるのか不思議です。