木綿絣(もめんがすり)

西武多摩湖線・武蔵大和駅から周囲道路を登ると村山下貯水池堰堤への入り口に出ます。(クリックで大)

進むと左側に広場があり、取水塔と一緒に不思議な形をしたものが目につきます。(クリックで大)

子ども達を案内すると、たいてい

「空から降ってきたお星さんだ」
「そうじゃないよ、おにぎりだよ」
「どうして、ひっくり返っているの?」
と賑やかです。

近寄ってみるとゴツゴツしていて、確かに宇宙の摩擦をすり抜けてきた天体とも受け取れ、謎に包まれた感覚です。

そばの案内表示を見て、はじめて「木綿絣」(もめんがすり)と名付けられたモニュメントであることがわかります。

議論がつきない不思議な存在(クリックで大)

タイトル:木綿絣
場所:東大和市多摩湖下貯水池
設置日:平成7年3月
材質:ステンレス、コールテン鋼
サイズ:H1400×W1700×D1700センチメートル

長文の説明があります。

「昔・東大和市では機織りが盛んでした。藍染の木綿絣がほとんどで、江戸の頃から、明治、大正となるにつれて生産が増えました。

白い綿糸十二反分を輪にして、ところどこをくくり、藍がめで染めつけ、絣模様を作りました。このくくり方の間隔で絣模様が変わります。染め場には、藍がめが何十個もあります。

藍玉をかめの水によくとかし、染め付けを良くするために、押麦、米、灰、酢などを入れ、よくかき回します。かめに入れ綿糸を引き上げて絞り、何度も打ちつけて乾かし、また次のかめに入れます。

こうした作業が繰り返されて濃い紺色に染め上がります。染め上がったら、つぼ(織子)に出します。織手の娘たちは、朝五時ころから、夜十時ころまで織り続けます。朝食前に三、四尺織り、一日に一反織って一人前と言われました。この木綿絣は、時代の流れとともに、人々が洋服を着るようになると需要が減り、次第に織られなくなりました。―東大和のよもやまばなしから―」

モニュメントは絹ではなくて木綿を原料にしたカスリ織りを表しています。とすると、綿の花? 藍がめ? 織り模様? 話題は尽きません。

木綿絣の考案者の居住地・石川地区 クリックで大

何よりもここに置かれた理由が大事のようです。木綿絣を考案したのが、貯水池に沈んだ芋窪・石川地域の慶性院住職や荒畑源七さんと伝えられるからです。

木綿織りは明治、大正期に最盛期を迎えます。どの位、村の中で重要な地位を占めていたかは、下の表の通り、明治8年(1875)の各村の特産額でいずれも第一位を占め、生産額も群を抜いて高かったことがよくわかります。

群を抜いて高かった木綿カスリ・木綿縞の生産額 クリックで大

東大和市の織物の歴史は

・江戸時代には木綿織りと養蚕が中心でした。養蚕は蚕を飼って繭にする作業です。でも、農民が絹物を着ることはありませんでした。
・明治時代には木綿織りに模様が加えられ「木綿縞」「村山絣」(むらやまかすり)として発展し、村の特産の第一を占めました。
・その後、大正から昭和にかけて、養蚕が盛りとなり、「村山大島」として絹織物の生産が急増し、木綿織りは減少しました。
モニュメントはこの間の動きを無言で語ります。

郷土博物館織物実技と展示 2016年5月4日の状況 クリックで大

家庭での織物はほとんど見られなくなりましたが、実技や展示は市の郷土博物館でも取り上げられています。
養蚕については芝中中央公園に、モニュメント「繭」があります。
機織りについては『東大和のよもやまばなし』に「村山絣」「機場(はたば)遊び」が伝えられています。

(2017,07,09,記)

モニュメント

繭(まゆ)

村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の産業

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