板碑(東大和市)

 中世を語り解明する有力な資料に「板碑」があります。秩父産の青い岩石(緑泥変岩)を材料にして、石板状にしたものです。「青石塔婆」とも呼ばれます。産地が近かったことと鎌倉街道が通じていたことから、武蔵には多数(約4万基)が建立され、東大和市域にも100を超すものが発見されています。

 このページでは、東大和市域の板碑について総括的に紹介します。

石造塔婆

 板碑の表には大日如来や阿弥陀様の文字などとともに年号や人の名前が彫られています。そこから、青石塔婆と云われるように、石造の塔婆とされます。故人の追善供養や自らの現世・来世の安楽を願うところから造立されたと考えられています。

三光院境内にまつられている板碑
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種子
 
 多くの板碑には仏尊を示した梵字が彫り込まれています。これを種子と呼んでいますが、地域的な特徴があります。
 
  東大和市の場合              東京都区部
  阿弥陀一尊 44             66
  阿弥陀三尊 31             24
  その他   25             10
 
 東村山市の場合は阿弥陀一尊、阿弥陀三尊、弥陀種子で90%を占め、薬師如来がないことと名号が比較的多いことが特徴としてあげられています。
 
年号
 
 板碑には年号が記されている場合が多く周辺市の状況は次の通りです。
 
   市名              最古        最新
  東大和市   永仁2年(1294)  天文11年(1542)   
  武蔵村山市   正応3年(1290
  東村山市   弘安6年(1283)  天文16年(1547)

三光院境内板碑の一部(阿弥陀一尊の梵字が刻まれている)
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造立場所の特徴

 板碑は約250年間を通して建立されました。そのため、建立の場所から歴史的な背景が探られています。東大和市の場合は貯水池建設により古村の地域が移転してい るため、正確には把握できません。お隣の武蔵村山市の場合は次のような特徴があるとされます。

 
 「狭山丘陵南麓にはいくつもの小さな谷が並んでいるが、板碑の多くはこの谷の奥および入り口付近を中心に広がっているのである。これは、前述のような平安末期から鎌倉期にかけての谷を単位とした開発行為を始めとする諸活動のあり方と、板碑の分布が無縁でないことを示しているのではないか。とするならば、これらの谷を中心に営まれた中世人の活動は、板碑の造立年代が示す一四世紀さらには一五世紀に引き継がれていると考えられよう。その中で興味深いのは、三ツ木地区峰の谷および中藤地区赤堀の谷における板碑の分布状況である。
 
 この二つの谷の周辺から出土している板碑を見ると、いずれも谷の奥に所在する板碑の方が谷を出た平地部分に所在する板碑よりもいささか古い傾向を持っているのである。」(中略)

板碑がまつられている様子(武蔵村山市2005年)

 この二つの谷をめぐる板碑のあり方から、鎌倉時代に造立された板碑は谷の奥に、室町時代の板碑は谷の外にという傾向を見いだすことができるだろう。それは、先に推測したように、鎌倉時代にまず狭山丘陵南麓の小さな谷が開発拠点として切り開かれていったことを反映していると考えられる(この開発時期は平安時代末期まで遡る可能性を秘めている)。その開発主体者の拠点のあり方の一つとして、宇津木台タイプの境堀を持った屋敷地が構えられたのであろう。そして、この谷の中を拠点として活動した人びとは、室町時代に入ると谷を出た場所にも活発な活動痕跡を残すようになるのである。』(『武蔵村山市史』上p291~292)

  東大和市の場合、板碑が当所まつった場所ではなく、別の場所に動いて保存されているため、地域的な移り変わりの確認ができないのが残念です。

東大和市の最古の板碑

 東大和市の現在における最古の板碑は永仁2年(1294)のものです。かっての水道事務所の北東から発見されました。(『東大和市史資料編』688
 しかし、それ以前の弘安六年(1283)三月銘板碑がありました。
 地元の五十嵐民平氏が『五十嵐民平考』に書き残して居られます。現在の村山貯水池下堰堤広場の近くにあった五十嵐家墓地に
・弘安六年(1283)三月銘
・正応三年(1290)
・貞治二年(1368)
 他一枚の板碑が存在していた。それは自転車で持ち去られたとの事です(p70~72)。

 この板碑が存在していれば、東大和市最古になり、永仁2年板碑とあわせて出土場所を考えると、貴重な示唆が得られます。

弘安六年(1283)、永仁二年(1294)板碑所在、出土地 
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  東大和市で祀られた板碑の最盛期
 
 板碑は祀られた時期に一定の推移が見られます。東大和市の特徴を『東大和市史資料編』6では次のように説明しています。
 「周辺地域の板碑の造立推移には二度の画期が認められる。当市においても同様の造立推移が認められる。
 第一の画期は、十四世紀中葉の一三六〇年代前後に盛行期を迎えるが、当市の場合、二、三〇年前後の年代の開きがあり若干遅れるようである。
 また、第二の画期は、他の地域では、おおよそ一四八○年前後にあるが、当市の場合は、周辺より若干早い時期の一四六〇年代が第二の盛行期といえ造立数が一時的に増す傾向にある。
 そして、現段階では、一五二〇年代には板碑の造立が終わり、近世墓標へと変遷してきたと思われる。」(p63)
 東大和市で板碑の造立が最も盛んに行われたのは1400年代であることがわかります。この頃、東大和市では、村の構成など一つの画期があったのではないかと推定されます。
 

 個別の板碑については別に記します。(2017.10.08.記 文責・安島喜一)

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