上宅部(かみやけべ)の里(東大和市)
上宅部(かみやけべ)の里
村山貯水池の建設に伴い下堰堤付近に沈んだ古村です。手前の取水塔の辺りから右側堰堤に沿って、杉本の里、内堀の里に接して営まれました。名前の上宅部(かみやけべ)については若干の説明が必要です。
古代から中世にかけて、村山貯水池に沈んだ地域から東村山駅近くまでの一帯の地域を「宅部」と呼んだようです。中世には「宅部郷」を形成していました。
・東村山市の古刹・正福寺地蔵堂の創建棟札に「応永14年(1407)」「武州宅部郷金剛山正福寺」とあります。
・江戸時代に、内堀の里は「宅部村」と命名されていました。
・古寺三光院は、「往古、宅部山なりしが、安永10年(1781)、輪王山と改称する」とし、宅部を山号としていました。(『狭山之栞』)
それが、いつしか、「宅部郷」は上宅部、下宅部に区分され、上宅部は現在の東大和市区域、下宅部は東村山市区域になったと思われます。
入り乱れた集落
村山貯水池が建設された当時、上宅部の里(下図右側)は杉本の里を挟むようにあり、杉本の里の一部が上宅部の里の中に飛び地のようにありました。余程の歴史的な背景があると思われますが、解明できていません。
図の小字名の地に、それぞれ、集落がありました。谷ッの集落の典型で、親元や一族から分家や独立した各家が混在していました。明治の地租改正の際には、地番が混乱して、設定不能のため内堀の里と杉本の里は合併して、新しく「狭山」を名乗り、地番を設定し直した経過があります。中世、宅部郷として一帯の地域であったことをよく示します。
集落の姿
上宅部は下図のように地域の中央に石川・宅部川が流れ、川の周辺に水田が営まれていました。家々は川の北側の斜面に階段状につくられました。 江戸時代末、27戸、大正年間の移転の際には48戸を数えました。ほとんどが一峰超えた南麓の清水地域へ移転しました。
杉本の里で紹介しましたので、詳細は避けますが、古社氷川神社は健保2年(1214)の創建を伝えます。芋窪の豊鹿島神社、内堀の里の御霊神社に次ぐ古社です。現在は清水三丁目に移転して「清水神社」としてまつられています。
同様、三光院は、天永3年(1112)に開山圓長法印が没したと伝えます。東大和市域最古の寺院です。清水五丁目に移転しています。堂については次に記します。
多くの歴史が積み重なっており、「出ば出ろ」「清水囃子のけいこ」「きつねの恩返し」「石神の話」などのよもやま話が伝えられます。
上宅部の古記録
『新編武蔵風土記稿』は上宅部を区別せず、清水村に包めて記します。
地元、杉本氏の著した『狭山之栞』は「多摩郡山口領宅部郷清水村の内上宅部」と清水村と区分して記録しています。地元ではこのように対応していたことがわかります。
氷川神社、三光院については杉本の里で紹介したので重複を避け、『狭山之栞』による新規な事項を紹介します。
氷川神社
永禄の奉納額
氷川神社に、祭神、素盞嗚尊・大己貴尊・稲田姫命の名を記した永禄12年(1569)の奉納額があったことが記録されています。「源」姓の奉納者など調査中です。
神仏習合に関する次の記述があります。
「本地佛座像の正観音長一尺五寸、後座共三尺三寸、厨子入なり。但し尊体は虫喰ひとなり、蓮華と後光は修飾を加へられたる如し。蓮華座の内に神躯三枚あり。左図の如し。」
として、「神躯三枚」を伝えます。このような形で、神仏習合の姿を明治初年まで残していたことがわかります。
板碑
文明4年(1472)、文明18年(1486)の板碑があったことが記されています。現在はいずれも所在が明らかではありません。
石神
観応3年(1352)銘の板碑が石神として信仰されていたことを伝えます。
「石神は字石原山下の柜(きょ)の木の根元にあり。原五郎右衛門の持地也。近郷の人々虫歯其外病あればお石殿と唱へ祈る時は其病癒る也。鉄の鳥居を献ず。」
現在も原家に大事にまつられています。『東大和のよもやまばなし』に「石神の話」として採録されています。
「・・・・。貯水池が出来るまでは、原家は湖底となった上宅部の石塔前という所にありました。
この板碑は昔、原家の北を走る道の端から掘出され、その時、鍛治でも住んでいたように大量のカナクソが一緒に掘出されたといいます。」
として、鍛冶の存在を伝えます。観応3年(1352)は、足利氏の兄弟対立が激化して、尊氏が鎌倉に入り、弟の直義が降伏し、急死した年です。観応の擾乱(じょうらん)、武蔵野合戦と戦乱が続き、ついに、狭山丘陵周辺の武蔵武士団である「村山党」は解体したと伝えられます。この時の板碑です。何らかの関連を語るものではと注目しいます。
阿弥陀堂
上宅部地域には氏族ごとの墓所があり、堂が建てられていました。
「阿弥陀堂(俗に中堂)は上下(かみしも)に堂あり、その中央なる故也。旧道金寺の跡を此地に移す。石塔前といふ字は道金寺の塔前なり。本尊阿弥陀如来にして原氏の墓所あり。寛政四子年(1792)二月八日に一度焼失したるを同年十一月十二日再建せるものなり。境内、銀杏の大木ありしが伐りて堂宇修繕材料に充つ。」
塔頭堂(たっちゅうどう)
「塔頭堂は本尊阿弥陀如来也。延享度(1744~1748)三光院の二重塔を移せしと云ふ。木下氏の墓所あり。地内枝垂桜(しだれざくら)あり、廻り四尺群。栃の木廻り八尺余ありしが伐りて修繕材料とす。」
これらの堂は集会所もかねていて、新年の集や念仏講に、一族が顔を合わせたそうです。
注、移転の状況図の中の地蔵堂は西楽寺地蔵堂と呼ばれ、上宅部ではなく、杉本(狭山)の里に属していました。
谷ッと神々と氏族
『狭山之栞』は神祠と地元で呼んだ地名を記します。
神 祠 山王、荒神、稲荷、山神
小地名 山王谷、荒神谷、山下、峰、中田、峰窪、石塔前、塔頭前、道金寺場
これらから、この地でも、それぞれの谷ッに神々がまつられた様子が偲ばれます。また、氏族として次の名を伝えます。
氏 族 木下、原、渡辺、森田、萩原、粕谷、宮倉、清水
いずれの方々も大正年間、狭山の峰の南の原に移転しました。当時は全面的に畑地の広がる地域でした。赤っ風の吹き荒れる中、屋敷を木々で囲い、ケヤキを植えました。数少なくなりましたがその一部が残されています。
(2019.08.23.記 文責・安島)