奈良橋庚申塚(東大和市)
奈良橋庚申塚(東大和市)
江戸街道として親しまれ、東大和市を横断する現・新青梅街道と、南北の主要道路・青梅街道の古道が交差する角に「奈良橋庚申塚」がありました。慶長11年(1606)11月、幕府から命を受け、青梅成木から江戸市中へと石灰輸送のため武蔵野の原野に一筋の道を切り開いた江戸街道の道端に奈良橋村の人々が築いた塚でした。
江戸時代の道
旧道は、所によって違い、巾3間~5間(5㍍40~9㍍)とされます。昭和30年代(1955)には、かって、商人や旅人が通り、馬につないだ荷車によってつけられた「わだち」(荷車の通ったあと)が残り、そこに下草が生えて、まるで二本の細道が一緒になったような素朴な道でした。
その傍らに小高い丘があり、馬頭観音と庚申塔がまつられていたのが奈良橋庚申塚です。
道は、昭和30年代になり、基幹道路として整備されました。昭和38年(1963)に清水―奈良橋間、昭和44年(1969)に奈良橋ー芋窪聞が旧道を拡幅し、舗装されて、見違えるような現在の新青梅街道になりました。
その際、塚は平地に削られ、庚申塔と馬頭観音は奈良橋の雲性寺に移り、現在は上図のような交差点になっています。旧位置に馬頭観音と庚申塔を復元してみました。
高木神社前にまつられる馬頭観音の供養之碑に「旧江戸街道改修により当所に移転 昭和34年(1959)2月11日 之を建つ 高木自治会」とあり、その頃から用地の買収が行われていたことがわかります。
奈良橋庚申塚は江戸に通ずる江戸街道と中世の府中道・現青梅街道の交差する場で、お隣の中藤村からの四街道・よこ街道(よつかいどう、よこかいどう)が交わりました。更に、蔵敷(ぞうしき)庚申塚を経て村山道に接しました。東村山市の九道の辻を経て田無にいたり、江戸へと向かいました。
奈良橋庚申塚は当時、新田開発された原野と畑中にあり、旅人の休憩場所であり、分かれ道の確認場所でもありました。
駄賃稼ぎの要路
江戸時代、この地方は米の品質が悪く、「山口領の悪米」と評され、年貢は金納でした。そのため、村人達は薪や炭をつくり、またはは八王子、五日市、青梅、飯能から仕入れ、江戸市中に馬で運んで「駄賃稼ぎ」「農間稼ぎ」をしました。一例ですが、馬による江戸への附送りは、
・夜四ッ時(午後11時)から江戸に出かけ、
・江戸街道(現青梅街道)を夜通し歩いて新宿を経て
・朝方、 外桜田にある曽我又兵衛宅に着き、炭薪を納めて、
・その日の内に立ち戻って、夜五つ前後(午後8時) に帰って来ます。
その時の祈りの場所が奈良橋庚申塚でした。
現在は交差点名と道路標識にその名が残るだけになりましたが、この地はまさに江戸への駄賃稼ぎ、交通の要点でした。
江戸への遠路の道中安全、その際の重要な役割を果たした馬の供養のため馬頭観音(寛政9年・1797)がまつられました。塔には三面六臂(さんめんろくひ)の馬頭観音坐像が浮彫になっています。この年は、諸外国の動きが日本にも及び、幕府が「異国船取扱令」を出しています。この道筋にも何らかの情報が行き交ったものと推測されます。
一方で村のはずれ
多くの行き交いがあるなかで、江戸時代、この地は奈良橋村の村はずれでした。大正年代の村山貯水池、昭和初めの山口貯水池の建設により、移転を余儀なくされた方々がこの地に居を移すまでは、一面の畑でした。
そこに、庚申塔(享保16年・1731)がまつられました。この地域では庚申様に塞ノ神(さいのかみ)の役割もお願いしたようです。六臂青面金剛像が浮彫になっています。塚には馬頭様もまつられましたが、最初から60年ほどは庚申塔がぽつんと一つまつられていました。
そのため、道標を兼ねたようで、台石には次のように刻まれています。
正面「東 江戸道」
左側面「北くわんおん道」(山口観音)
右側面「南・府中道 西右・中藤 左・青梅」
当時の道筋がよくわかります。
現在の馬頭観音、庚申塔
庚申塚から移られた馬頭観音、庚申様は雲性寺の境内、山門左側にまつられています。立ち止まっていられないほどの新青梅街道の旧地とは全く異なった静かな場で、何事もじっと見守って下さるようで、お参りする人が手を合わせます。
東大和市内では特徴ある石仏で、詳細は別に記します。
(2019.08.05.記 文責・安島喜一)
四街道馬頭観音