中和会の発足(東大和市)
中和会の発足
明治14年(1881)のことです。1月15日、府中の高安寺で、自由民権の実現をめざす北多摩郡有志による自治改進党が結成されて発会しました。その熱々の雰囲気がたぎる2月15日、小川村の小川寺に、青梅街道周辺の村人が集まりました。自治改進党の党員は多くが甲州街道・南多摩に集中しています。狭山丘陵の周辺の人々はより積極的な動きを求めたのでしょうか。
小川弥治郎(小川村、現小平市)・内野杢左衛門(蔵敷村、現東大和市)・宮鍋庄兵衛(高木村、現東大和市)・小島龍叔(野口村、現東村山市)らが呼びかけています。
嚶鳴社の草間時福、東京横浜毎日新聞社の竹内正志が弁士として招かれて、卓上演説があり、自由民権に関する結社の計画が議題となりました。東大和市蔵敷の内野家にその盟約書の草案が残されています。当時の青梅街道道筋の村人の意志が浮かび上がります。身近な人々が進めた運動の考えが辿れます。長くなりますが紹介します。
第一回(明治14年2月15日)
①中和会盟約書草案
第一条
一、我輩ノ団結シタルモノヲ、公称シテ中和会ト号ク(なづく)
第二条
一、本会ノ主義ハ、正理公道ニ基キ、民人ノ幸福ヲ増益(享受)セントスルニ在リ
第三条
一、前条ノ主義ヲ達センカ為メ、毎月一回演説又ハ討論
ノ会ヲ開キ、和合一致シテ、立志ノ実力ヲ養成スルヲ
専ラトシ、毎月一回又ハ演説又ハ討論ノ会ヲ開クベシ
本会ノ主義ハ、天賦ノ自由ヲ保護シ、人生ノ福祉ヲ享増
益セントスルニ在リ
(東大和市内野秀治家)
(『武蔵村山市史』資料編 近代・現代p176)
「天賦の自由」「人生の福祉」と東大和市周辺の村人達の生の言葉が伝わってきます。会の様子を明治14年2月18日の東京横浜毎日新聞は
「・・・此日相ひ会する者六十名、会名を中和と称し、簡単なる合議書も調ひ、将来愈々之を拡充するの目的なるよし、・・・」と紹介しています。
なお、盟約書の草案がさらに三回に亘り検討されたことがわかります。趣旨と目的が集約される一条と二条を引用します。
②中和、責善会盟約草案
第一条
一、我輩ノ団結シタルモノヲ、公称シテ中和、責善会ト号ク
第二条
一、本会ノ主義は、人民ノ自由ヲ拡充シ、権利ヲ伸張セントスルニ在リ
(以下省略)
③有志者仮盟約書
第一条
一、我輩ノ団結シタルモノヲ、公称シテ中和会ト名ク
第二条
一、本会ノ主義は、天賦の自由ヲ保護シ、人生ノ福祉ヲ増益セントスルニ在リ
④同盟仮合意書
第一条
一、我輩ノ団結シタルモノヲ、名ケテ中和会ト云ウ
第二条
一、本会ノ主義は、天賦の自由ヲ伸張シ、人生ノ福祉ヲ増益スルニ在リ
(この仮合意書には明治十四年二月十五日の日付が記されています。)
明治14年代に、青梅街道、志木街道筋の村人が、何回も議論を重ね
・「人民の自由、権利の伸張、天賦の自由、人生の福祉・・・」を目指して
・「毎月一回又ハ演説又ハ討論ノ会ヲ開」き、
・「立志ノ実力ヲ養成スル」
ことが合意されたことは、誇らしく思えます。なお『東大和市史』は主義の記載の変化について
「この間の議論の経過は不明であるが、最初は「自由と権利」意識が強烈に反映するかたちになるが、議論を重ねるに従い、次第に表現がやわらかくなっていくのがわかる。各村の豪農層・名望家層などがメンバーの中核を占めていることも、こうした経過をたどる要因になっているのかもしれない。」(p270)と記しています。
第二回(明治14年3月19日)
こうして出発した中和会ですが、第2回はとんだことになりました。会の当日、蔵敷村の内野杢左衛門が小川村の会場に行くと出席者は何と、たった一人でした。さすがの内野さんも「悲憤いかんとも致し方なき」として、次のような手紙を残しています。
3月21日付の内野杢左衛門書簡
「其刻小川村ニ到リ候処、会員単ニ九右衛門ノミ、歎念悲憤如何とも致し方ナキ次第、御洞察可被下候、却説愈真本ノ有志者五六名ヲ募リ、来ル二十七日午後一時ヨリ、中藤村真福寺ニオイテ演説会開場ノ積リ決定候間、・・・」
として次回は、中藤村で開催することを決めています。
このことから、中和会はその構成を変えたようです。『武蔵村山市史』は
「ここで始めて小川村主導から蔵敷・中藤両村主導の中和会に変化したのではないかと考えられる。このような経緯をたどった大きな原因の一つは、中和会が本部を置かずに、演説討論会の開催場所もそのたびごとに決定していくとしているように、中心となる場所が決定されていなかったことにあろう。」(『武蔵村山市史通史編』下p141)としています。
第三回(明治14年3月27日)
種々調整が進められた結果、明治14年3月27日、中藤村の真福寺で第三回の懇親会が開催されました。今回は盛会でした。特に資料が残りませんので、『東京横浜毎日新聞』の記事から紹介します。
・北多摩郡中藤村の有志輩(ゆうしはい)は、
・人民公共の自由福則(ふくそく)を謀(はか)らんと欲せば、
・先づ同主義の者団結一致するより急なるはなしと云ふを悟り、
・ ・・・今度又た同村に於て演説会を開かんと決し、
・右等の事を協議せんが為め、
・一昨廿七日、同村真福寺に同志者相集りて懇親会を開き、
・愈々、来月より東京嚶鳴社員を聘(へい)して演説会を開くことに決議し、
・既に同志の者百二十余名程に及びしと、
・この会を創立することに付て専ら尽力したるは、内野佐兵衛、内藤藤左衛門、齋藤靖海、川島秀之介、比留間邦之介、關田粂七郎、石井権左衛門、渡邊竹四郎、同九一郎、見島龍叔、川鍋八郎兵衛、宮鍋正兵衛、内野杢左衛門等の数氏なりと云ふ
(『東京横浜毎日新聞』明治十四年三月二十九日)
こうして、青梅街道沿いに「人民の自由、権利の伸張、天賦の自由、人生の福祉・・・」を目指して民権結社「中和会」が発足しました。この後、東大和市域内では、引き継ぐように、5月6日、芋窪学術演説会が昇隆学校で開かれ、次いで、9月25日、狭山自由懇談会(円乗院)、11月21日、奈良橋自由懇談会(奈良橋学校・雲性寺)が開かれます。この間、五日市憲法草案を作成した千葉卓三郎が奈良橋村の鎌田家に逗留し、狭山自由懇談会に参画しています。
大きな動きとしては、10月11日に明治政府が10年後の国会開設を約しました。10月29日には自由党が結成されています。
自由改進党も中和会も自由党結成につれて解散したようです。
明治の一つの画期の中、青梅街道沿いの村人が国会開設への道を拓いた中和会でした。
(2019.11.7.記 文責・安島)