八坂神社(武蔵野牛頭天王 野口の天王様 東村山市)
八坂神社(武蔵野牛頭天王 野口の天王様 東村山市)
所在地 東村山市栄町3-35-1
祭神 素盞嗚命(すさのうのみこと)(牛頭天王)
由緒 創建 弘安元年(1278)から間もないころか、または国宝正福寺千体地蔵堂の創建された応永14年(1407)の頃、
・臨済宗正福寺が別当でした。「天王宮」「祇園社」「野口村の牛頭天王(ごずてんのう)さま」「八雲神社」とも呼ばれていました。
・明治2年(1869)八坂神社と改称しました。疫病除けの神として信仰されてきました。
・正福寺山門右側に、八坂神社があります。
・この社について、東村山市HPは「正福寺の境内に神輿の格納庫の仮宮があり、神仏混淆(しんぶつこんこう) の名残を感じさせます」と記しています。
府中街道に面して鳥居
八坂神社は府中街道(旧鎌倉街道)沿いに、一段上がって鳥居を設け、こんもりとした森の奥にまつられています。
石段をのぼって振り返ると
「この道筋と俺れーらを守ってくださってんだあー」
と話す古い友人の言葉をそのまま感じます。
昭和64年(1989)、道路拡幅によって位置を変え、奥に社殿が新築されました。旧社殿は現在の奉額殿となりました。
鳥居の手前左側に「八坂神社由緒」碑があり、祭神、創立などの由緒について次のように刻まれています。
・祭神は素盞嗚命(牛頭天王)である。
・創立は別当正福寺の火災で記録が焼失し詳らかでないが
・正福寺の建立された弘安元年(1278)から間もないころか、
・正福寺千体地蔵堂の創建された応永十四年(1407)の頃と考えられる。
・宝暦4年(1754)野口村明細帳、明治3年(1870)神社書上帳に
・村内鎮守・牛頭天王は明治2年(1869)八坂大神と改めたと記されている。
・『武蔵名勝図会』には古くから奥州街道の前に鎮座、社地には松の木が鬱蒼として茂っていた
・祭神は素盞嗚命尊でその神像は手に斧を持って立つ銅像であると記されている。
・棟札から、天保3年(1832)に拝殿が改築され屋根は茅葺であった。
・例大祭は7月15日で前日から神輿、大太鼓、屋台囃子等賑わいは遠く近郷の人々も詣で大きな楽しみとなっていた。
・昭和39(1964)年に拝殿、幣殿とも改築されたが、
・平成元年(1989)現社殿が新築落成した。
と刻まれています。全文は別に記します。
拝殿を正面にして長い参道を歩くと、この神社の歴史が武蔵野の村落の歴史と重なり、特に、「武蔵野牛頭天王」のいわれが云いようもない強い思いを浮かばせます。
「八坂神社御社殿新築の記」碑
石灯籠の右側手前に「八坂神社御社殿新築の記」碑があります。
・昭和62年(1987)、東京都による都市計画道路の拡幅整備事業により、
・神社所有地が買収されることになった。
・新社殿を構築することになり、社殿建設委員会が都内、埼玉県内の神社の見学を行い
・理想的な社殿を造営するよう設計と検討が加えられた。
・建築設計は(株)古典建築設計事務所に依頼した。
・昭和62年(1987)12月、入札の結果、(株)金剛組が落札した。
工事費2億2500万円、工期昭和64年4月末日
・昭和62年(1987)12月14日、古式豊かな手釿始(ちょうなはじめ)の儀など厳粛荘厳に地鎮祭が執り行われた。
・昭和63年(1988)「銅板壱枚奉納推進運動」が展開され、多額の浄財を御奉納いただいた。
・平成元年(1987)3月17日、上棟式が古式により盛大に執行され、
・同年5月30日夜、御遷宮式が雨の中静かに行われた。
・同年6月10日、新御社殿が完成、落成奉祝祭、祝賀式が行われた。
と刻まれています。全文は別に記します。
拝殿と「武蔵野牛頭天王」額
新築なった八坂神社の拝殿です。
村人達が悪疫、病魔を防ぎ、救いの手を伸ばし、五穀豊穣をもたらせる神に、こぞって祈りを捧げて来た重みがグンと迫ってきます。
創建から現在に至るまでの間、神社の名は変化してきました。江戸時代には「鎮守牛頭天王」と称され、明治2年(1869)に「八坂神社」と改称しました。拝殿にはその貴重な「武蔵野牛頭天王」の額が掲げられています。
この扁額について、神社パンフレットには
「・・・昔は「天王社」「天王宮」「野口村の牛頭天王(ごずてんのう)」などといわれて、「八雲神社」といわれたこともありました。近くの臨済宗正福寺が別当でしたが、この正福寺が寛文年間に数回の火災にあいました。その時に八坂神社の大切な記録がぜんぶ燃えてしまいました。しかし本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)によりますと、素盞嗚命(すさのおのみこと)は「牛頭天王(ごずてんのう)」で、寺院の守護神ですから、正福寺の守護神として牛頭天王さまが奉斎されたと思われます。」
とその由来が記されます。
牛頭天王の姿は
・『武蔵名勝図会』「武塔天神なり。神体 手に斧を提持し立給う銅像 これは巨旦が賊を討滅し給う威霊の像なり。」
・『狭山之栞』「銅仏の持國天 長一尺」
・『ひがしむらやま文化財風土記』牛頭天王図(掛軸)(p28)
・竹寺(飯能市)に大きな銅像がまつられています。
奉額殿(旧社殿)と「祇園社」額
長い参道を進むと、正面拝殿の右側手前に奉額殿があります。
かっての社殿です。府中街道の拡幅工事に伴って、昭和62年(1987)~平成元年(1989)にかけて社殿を新築しました。その際、旧社殿は移築して奉額殿となりました。奉額殿に貴重な社号額が掲げられています。
八坂神社の歴史を語る大切な社号額です。八坂神社の祭神は素盞嗚尊(すさのうのみこと)で、京都祇園の「八坂神社」と深いつながりがあります。神社パンフレットでは
「牛頭天王(ごずてんのう)
牛頭天王とはインドの祇園精舎の守護神といわれます。牛頭天王はインド北方九相国の神で、素盞嗚尊(すさのうのみこと)とインドの牛頭天王との事跡に、似ていらっしゃることから習合されたと伝えられます。京都の「八坂神社」に祭られています。愛知県の「津島神社」にも古くからこの神の信仰が深くひきつがれています。」
と説明されています。
八坂神社(天王さま)の大獅子頭
奉額殿の正面右側に「八坂神社(天王さま)の大獅子頭の説明板があります。
「この一対の大獅子頭は、文久三年(1863)に櫻井富右エ門、鈴木勘左エ門、松田定右エ門、五十嵐喜兵衛によって奉納されました。
八坂神社の祭神牛頭天王(ごずてんのうさま 通称「天王さま」素盞嗚命と同体とされる)は疫病除けの神として信仰されていますが、以前は疫病が流行るとこの大獅子頭をかぶって村内を巡ったそうです。
祭礼の際などに魔除け厄除けを目的として大獅子頭を練り歩く風習は他の地域でも知られています。
八坂神社では今では大獅子頭を練り歩くこともなく、7月の祭礼の時だけ、本殿の回廊に奉安されることとなっています。
平成四年(1992)三月 東村山市教育委員会」
なぜ原中にまつられたのか
八坂神社は武蔵野の原の中にまつられました。まさに「武蔵野牛頭天王」様です。狭山丘陵南麓の集落から離れた位置にあります。
この地は承応4年(1655)野火止用水開削後に新田開発が行われ、それ以前は武蔵野の原野でした。原中にただ一路、旧鎌倉街道(上道・かみつみち)が通過していました。そこに神社が設けられ、向かい合うようにまいまいず井戸があったことが伝えられます。
・なぜ、悪疫、病魔を防ぎ、救いの手を伸ばし、五穀豊穣をもたらせる神が、集落から離れた原にまつられたのでしょうか?
・日常の生活を営む集落には別当・正福寺があり、その山門右側に八坂神社が仮社としてまつられています。
夏に行われる八坂神社例大祭の時、神輿は仮社から本社に渡御し、翌日、本社から仮社にもどり、仮社の神輿屋に納められます。
仮社と本社は深い関係がありそうです。八坂神社発行のパンフレットでは
「正福寺が建立されたと伝えられる弘安元年(一二七二年)から間もない頃から、または現在の重要文化財の正福寺千体地蔵堂を建立されたと考えられる応永十四年(一四〇七年)以降間もなく奉斎され、のちに鎌倉街道ぞいの現在地に社殿を建立したと思われます。」
として、最初は本社が正福寺の近くにあり、後に、現在地に遷ったと記しています。その関係が今も生かされているようです。
それにしても、なぜ、原中にまつったのかは謎です。天王様と関係がありそうです。じっくり勉強したく、お教え頂きたくお願いいたします。
新型コロナウイルスの蔓延に危機感を持ちます。かっての村人達はこのようなとき、「天王様」に祈りを捧げ、いかに危機を切り抜けたのかその切実さが伝わってきます。もう20年近く前の2001年5月15日、参拝した折りの画像やそのときに頂いた八坂神社のパンフレットを見ながら、この記事を書き、更に緊迫さを感じます。
(2020.04.15.記 文責・安島)