5近世・江戸時代1(東大和市の歴史・略年譜)
5近世・江戸時代1(東大和市の歴史・略年譜)
・1591(天正19)年、徳川家康が関東に入府。
・直後に狭山丘陵周辺に直属の家臣が配属されてきた。
・領地の配分による村切りによって
芋窪、奈良橋、高木、後ヶ谷、清水村の5村が成立。
・地頭は村に家族とともに住み、陣屋を構え、江戸へは馬で通勤登城をした。
・豊鹿島神社に13石、氷川神社(現清水神社)に5石、三光院に3石の領地が与えられた。
・1606(慶長11)年、青梅上成木などから石灰の供出が命ぜられ、江戸街道が出来た。
・1607(慶長12)年、円乘院が上ノ屋敷(二つ池付近)から現在地に移った。
・1611(慶長16)年、氷川神社(現清水神社)本社殿を再興した。
・1625(寛永2)年9月2日、奈良橋村地頭石川太郎右衛門朱印状写しがある。
・この頃、地頭に対し江戸の屋敷割があり、地頭は江戸へ移った。
・1629(寛永6)年、蔵敷熊野神社創建と伝えられる。
・1633(寛永10)年、尾張家の鷹場に指定された。
・鷹狩りの場として、武蔵野の現状を一切変えてはいけない
・鳥や昆虫、池や沼の魚を捕ってはいけない
・案山子(かかし)をたてるのに許可が必要
・鷹の餌に、赤蛙、常山虫(コウモリガ、カミキリムシの幼虫)を差し出せ
・立川村で、「御鷹」が逃げた。見つけ次第、最寄りの「御鳥見」まで申し出よ。
(安永6年(1777)『里正日誌』2p237)
・・・・
きりがありません。
・1644(寛永21)年3月3日、多摩郡前沢村(現東久留米市)で尾張藩主が鷹狩り。
東大和市域の村々から132人が人足として徴発される。
・1649(慶安)2年8月24日、鹿島明神(豊鹿島神社)へ13石の朱印状(『里正日誌』1p119)
・1654(承応3)年、玉川上水完成。
・1655(承応4・明暦元)年、野火止用水完成。
・小川村の開発に遅れじと、村人たちは両用水めがけて新田開発に励む。
・1669(寛文9)年、後ヶ谷村新田検地帳に、砂のたい、江戸街道向(現・新青梅街道南)等の地名が表れる。(『里正日誌』1p146)
◎延宝期(1673~80)には野火止用水際まで一挙に開発を進めた。
・狭山丘陵の麓を生活の基盤として、
・武蔵野の原野を南に、南にへと汗を流して開墾した結果、
・縦に細長い、境界の激しく入り組んだ村が
・成立した。
・細く長い村は隙間なく接して、
・互いの境界を時間をかけて定めていった。
・現在の東大和市域の素地ができた。
・耕せばその下は直ぐ赤土になる武蔵野台地
・痩せた土地に多くの肥料を要し
・水場もなく、野火止用水からは一滴の水も許可にならず
・境界が激しく入り組んだ
・しかも、年貢は、生産品の質が悪いからと、金納です。
・その辛苦が筋金になったかのように自立心旺盛な村々が隣接することになりました。
東大和市の近世の歴史の始まりです。
厳しいことばかり並びます。そのような中で、村人は
・狭山丘陵の限られた耕地から解放され
・新しい作物の可能性
・家族を養う基盤が出来てきた
ことなど、明日への希望と期待のもとに次への時代を切り開いたのではないでしょうか。
(2021.05.16.文責・安島喜一)