青梅橋の瘡守稲荷(かさもりいなり)
かって、この場所にお稲荷さんがありました。
桜の大木があって、夏には大きな日陰をつくり、秋には見事に紅葉して道行く人の目を留めました。
江戸時代から、瘡守稲荷(かさもりいなり)と呼ばれて、当時は命取りとなった疱瘡(ほうそう)は言うまでもなく、どんな病にも霊験があるとのことで、地元だけでなく遠くからもお参りに来ました。
この地方で、疱瘡は命取りの病でした。武蔵村山市中藤の指田氏が残した指田日記には
天保6年(1835)5月28日、箱根ヶ崎で子供が疱瘡にかかったことが記され
1月26日夜、○○娘、疱瘡にて死す
3月3日、中藤入り○○娘疱瘡湯流し
3月7日、東隣小児疱瘡湯流し
3月21日、東隣小児、疱瘡にて死す
と、死亡記事が重なります。そして、治療は「湯流し」という、修験の行による病魔退散、病気回復でした。しかし、それも叶わず、死亡する子供達が多かったことを伝えます。このような中で、瘡守稲荷は真剣に祈られたようです。『東大和のよもやまばなし』は次のように語ります。
一銭あげて ざっとおがんで
おせんの茶屋へ
腰をかけたら 渋茶を出した
渋茶よこよこ横目でみたら
土のだんごか 米のだんごか
おだんご だんご
東大和市駅の高架のそばにある瘡守稲荷(かさもり)です。天保五年に発行の御岳詣りの道中記である『御岳管笠』(みたけすげがさ)に描かれています。
芋窪から出てこのあたりで酒屋を営んでいたという乙幡氏の勧請された稲荷でしょうか、明治十年丑二月初午・施主乙幡徳左衛門と刻まれております。
大変に霊験あらたかで、どんな病気でも、「カサで悩んでいます」と拝みますと必ず治ってしまうということです。これを伝え聞いて、かなり遠くからもお参りに来る人があったそうです。
祈願する時には、唄の文句のとおりまず土のだんごを五つ供えます。そして願がかなうと今度は米のだんごをこしらえてお礼に供えるのです。
病気が治ったのを喜んでお餅をたくさん供えていかれた稲城の方もあります。
こうして人々に頼られたお稲荷さんも、時が経ち医術が普及するにつれて、だんだんと役目が少くなってきました。
先ごろまで「あをめはし」と刻まれている橋の欄干が残っていましたが駅の改築と共に整地された緑地の中に納められて、お稲荷さんと桜の古木だけが高架の下で昔の面影をとどめています。」(p13~14 一部省略)
現在は、鉄道の高架化、駅前広場の整備によって、約200メートルほど離れた場所に遷されて、ご近所の方々にまもられています。
赤い鳥居に赤い旗がひらめき、赤いよだれかけも新鮮です。