高木の笠森稲荷
東大和市には、江戸時代から信仰を厚く寄せられたお稲荷さんがたくさんあります。中でも「かさもりいなり」として親しまれたのが、青梅橋の瘡守稲荷と高木の笠森稲荷です。『東大和のよもやま話』はこう語り出します。
「向う横町の おいなりさんへ
一銭あげて ざっとおがんで
おせんの茶屋へ
・・・
と唄われたのは、絵師鈴木春信の描いた美人のおせんで有名な谷中の笠森稲荷ですが、当市内にもこれと同じ名のお稲荷さんが二つあります。一つは高木の宮鍋佐一郎さん宅にある笠森稲荷で、もう一つは東大和市駅の高架のそばにある瘡守稲荷です。」
と紹介されるお稲荷さんです。
今回は高木の笠森稲荷を御案内します。高木神社の前の道(清戸街道)を約200㍍ほど東方へ向かうと左側に石垣が続き、道を挟んだ一角にまつられています。
宮鍋さんの祖父は青梅橋のたもとで馬宿をしていました。病にかかり近くの瘡守稲荷にお参りをしたところ治ったので、住いのある高木にも同じお稲荷さんを祀ろうと、天保七年(1836)に伏見稲荷の別当寺である愛染寺から勧請してきたのだそうです。
大変に霊験あらたかでどんな病気でもここを訪れて「カサで悩んでいます」と拝みますと必ず治ってしまうということです。これを伝え聞いて、かなり遠くからもこのお稲荷さんにお参りに来る人があったそうです。
祈願する時には、「向こう横丁のおいなりさんへ・・・」の唄のとおり、まず土のだんごを五つ供えます。そして願がかなうと今度は米のだんごをこしらえてお礼に供えるのです。病気が治ったのを喜んでお餅をたくさん供えていかれた稲城の方もあります。」(p13~15「笠森稲荷」のうち、高木の笠森稲荷について分け書き)
と紹介されます。カサは疱瘡(ほうそう)や時には梅毒を意味しました。特に、疱瘡は種痘が一般化されるまでは、命取りに近い病でした。ほとんど医師の居ない江戸時代の村では、修験による病魔払い、お地蔵さんやお稲荷さんに祈ることが精一杯のことでした。
高木のお稲荷さんの以前の祠には、村人たちがお参りした姿がそのまま残されていました。
お礼の丸石が置かれ、壁には鉄製の小さな鳥居が多く納められています。壁には千羽鶴も捧げられています。
何よりも注目は入り口の狐が守っているのが、子狐であることです。これは、カサと同時に子供の授かり、命の安全、豊作、繁盛が祈られた証のように思えます。
そして、うれしいことに、祠が建て替えられた際に、このお稲荷さんがまつられた経緯が説明板に記されました。
「江戸谷中笠森稲荷の分霊を勧請祭祀したもの。
伝承によると村内で悪病に罹った者があったので、明和元年(一七六四)二月初午の日に、愛宕山円乗院の二十八世法印英玄が勧請導師となって、この場所へ笠守(森)稲荷を勧請した。
その後、天保七年(一八三六)正月吉辰に、日本稲荷総本宮愛染寺住持十六代目知山より宮鍋定七が、この笠守稲荷社の山城国の、伏見稲荷本願所の愛染寺から、分霊を勧請祭祀し「正一位稲荷大明神」と称した。」
とあります。
(2017.08.03.記 文責・安島喜一)