三光院の歴史

現在の三光院 新青梅街道に面する山門を入った全景 
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 所在地 清水四丁目1232番地 旧地 村山貯水池湖底 山口領宅部郷清水村之内上宅部

 宗 派 新義真言宗、豊山派。本尊・阿弥陀如来。

下堰堤からの取水塔 三光院は手前の取水塔の近くにあった 
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 もとは多摩湖の湖底、現在の下堰堤から最も近い取水塔の近くにありました。多摩湖の建設にともない、大正12年6月に現在地に移転しました。

湖底の集落と三光院 東大和市域では内堀、杉本の一部、上宅部、東村山市域では下宅部の一部が檀家を構成していた
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 草創・開基の年代は不明です。二つの伝承があります。

①『新編武蔵風土記稿』
「開山は圓長と云、天永三(1112)壬辰五月三日寂す」
「本堂十間に五間東向、本尊阿弥陀を安す」
 東大和市内では最も早い開山となります。
②寺伝
 開山となった快元法印は延文二年(1357)六月一日に入寂。
 開基の石井美作が延文四年(1359)に没。
 とします。
 
 これらから、遅くとも1300年代中頃には創建されていたことがうかがえます。『三光院小史』は
 「なお、開山法印快元和尚以降は、十二世中興開山法印圓長和尚まで不明である。宗派はかつて、時宗の道場であったといわれるが、現在は真言宗豊山である。その法流開基は、第十五世法印寂如によるものである。」(p8)とします。
  参考までに、
◎鐘楼の鐘は、現在、三代目で初代は永禄3年(1560)の鋳造とされます。

◎天正19年(1591)11月、徳川家康より朱印三石を賜り、12通の朱印状(市の重宝) を伝えます。

三光院創建頃にはまだ村名はなく中世の広域的な「宅部郷」に属していた クリックで大

 以上から、三光院は貯水池に沈んだ上宅部の集落の形成にあわせて創建されたことが想定されます。上宅部に連続する東側の地域は下宅部で、正福寺(東村山市野口)があります。正福寺は弘安元年(1278)の創建が伝わり、国宝の地蔵堂は応永14年(1407)の創建棟札を有します。

 中世、狭山丘陵の形成した長い大きな谷ッの中程に三光院、野の口に、正福寺とそれぞれ寺が成立していたことが考えられます。

 

三光院に保存される中世の板碑群 中央の「南無阿弥陀仏」板碑には応安二年(1369)の年号が刻まれている 
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 寺に保存される貴重な板碑群には、その背景をしみじみと語ってほしいものです。

 
 寺の状況について、地元の杉本林志氏は『狭山之栞』で、
 

「御室御所(おむろごしょ)の直末であったが、寛永十年(1633)三月十九日に離末、青梅・金剛寺の客末になる。

 往古は所在の地名から山号を宅部山と号したが、安永十年(1781)に輪王山と改称した。檀家150戸、旧門徒七ヵ寺として、(日向山)光明院、大泉寺、 (宝珠山)西楽寺、(吾庵山)道金寺、泉済寺、 松林庵、金剛庵あり」(p56)

 
 と書き上げています。また、東大和市史資料編8では
 
 「描かれた年代は不明であるが三光院の古図には、寺は東面にたてられ、境内は一万坪あり、本堂のほか庫裏、長屋、土蔵、鐘楼、大日堂などがあり、弁天、天神が祀られていた。」(p48)
 としています。
 

 狭山丘陵に根付いた大きな中世寺院であったことが伝えられます。我が町最古の中世寺院、これからご一緒に、いろいろと明らかにして行きたいと切に願います。

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(2017.08.07.記)