天保年代(1830~43)は、寛政・天保小氷期と云われるほど、寒冷化が特に厳しい時代でした。

 冷害に見舞われ、作物の不作が続き、農村は飢饉に襲われました。

 東大和市域の村々は猛烈な飢饉により、下記の表のような飢人が発生しました。

 

(クリックで大)

 この状況に蔵敷村では富裕者10人が稗15石を窮民50人に配布して一時しのぎをしましたが、追いつかず、幕府から15両を借りてどうにか切り抜けました。

 この年は飢餓が広範囲に及んだため幕府も「飢餓救方教諭」を村々に発しています。隣村の三ツ木村に宛てられたものが残されています。

 「貧民飢窮にせまり、余儀なきお助けと云い、軒別にこぞって隣村または追々御府内までもまかり出て物貰い、袖乞いなど致す・・・」として、村の人口が減り、村方が衰微するので、そのようなことのないようにせよと沙汰をしています。一方で、「米を買い占めたり、余業に穀物商いを始める者まで出てくる・・・」(武蔵村山市史上p1122)と指摘していることに、「いつの世も・・・」と嘆き節が聞こえます。

 前回紹介した作物の状況と合わせると村人達の呻きが直に聞こえてくるようです。

 (2017.06.04.記)

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