火をふところに入れた法印さん(よもやま話)
江戸時代のことです。先ず、お話を聞いてください。『東大和のよもやまばなし』の一話です。
「清水に持宝院(じほういん)という修験の法印さんが居りました。代々学問のある家の人でした。
江戸末期のことです。その頃は副業に炭焼をしていた家が多く、馬に炭を付けて淀橋まで運んだものです。正月の初荷で持宝院も馬をひいて出かけました。当時、淀橋を渡って少し先の成子坂の下に馬宿があったそうです。」
「持宝院は、ほっとしてそこでひと休みすることにしました。荷付け馬を表につないで中に入り、居合せた人達と気軽に言葉を交しているうち、ひとりの馬方が急にからんで来ました。
「酒の肴にどうぞ……」
と言って、真赤におこった炭火を火箸に挾んで差出しました。持宝院は少しも騒がず懐から半紙を取出してその炭火を包むと、そのままゆうゆうと懐に入れてしまいました。そしてやおらもう一枚の半紙を出して、
「私ばかりいただいては済まないから、お前さんもどうぞ……」
痛快です。お医者様の少なかった時代、修験は祈祷やお祈りで病魔を払い、村人達に信頼されていました。その上、このような場所で持ち味を発揮しています。
持宝院は現在の武蔵大和駅付近に本拠を構えていました。先祖は江戸聖坂に住み、「祈願檀家には旗本衆多く」と学問所を開いていたと伝えられます。末裔の大久保狭南は武野八景や小金井桜樹碑の碑文を著しています。
このお話の背景には「駄賃稼ぎ」があります。東大和周辺の村々は水田が少なく、米質も悪かったため、年貢はお金で納めることになっていました。やむなく、農業の合間に稼ぎをしなくてはなりません。その一つに駄賃稼ぎがありました。江戸市中のお屋敷へ、馬で薪や炭を運んで、運び賃を稼ぐのです。江戸街道(現・新青梅街道)を中野、新宿、四谷へと進み、江戸のお屋敷に達しました。
道中、それを妨害する勢力が待ち受けています。地元の仲買人や問屋に雇われた凄味の連中です。この対応には知恵比べが必要だったようです。今回は、修験が見事に裁いてくれました。
駄賃稼ぎについては別に書きます。(2017.07.22.記 文責・安島喜一)50