こさ池とかゆ塚
狭山丘陵周辺で、太平記をひときわ彩る話に、元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めがあります。
それは
・・・と繋がります。
その後になるとなかなか出てきません。ところが、助け船、『東大和のよもやまばなし』にこんな話が伝わります。
「今は多摩湖の底になってしまった内堀に、こさ池という池がありました。古歌に残る「狭山の池」とも言われている池で、この辺では最も大きく、水に沈むまで田用水として使われていました。このこさ池にまつわる伝説があります。
昔、新田義貞が鎌倉を攻めた時、この附近に陣を布(し)き、こさ池の水を汲んで粥をつくって軍勢に食べさせたということです。食べた場所が「かゆ塚」と言って東村山の廻り田にある金山神社の南に残っていました。その辺には四ツ塚と言って当時の伝説がある塚が最近まで並んでいたそうです。又、こさ池に近い山の上に、「ごはん塚」といわれた所もありました。」(p195)
「こさ池」は、現在も地図の一部にその跡(湖畔二丁目の北方に谷を形成)を残します。狭山丘陵の谷ッにできた奥行き100メートル近いとされる大きな池で「古沢池」と呼ばれていました。蓴菜(じゅんさい)の生える田用水の溜め池でもありました。
さて!と意気込みますが、「こさ池の水で粥を作った。食べたところが金山神社の南側(東村山市内)」となると、子供たちは率直です。
「どうやって運んだんだ!!」
「だけど、二ッ池に、ごはん塚のモニュメントがあるじゃん。そこには
と、謎解きは広がるばかりです。
山口観音に新田義貞本人が祈願したかどうかは確かではありませんが、鎌倉攻めの別軍が幾筋にも分かれて通過したことは十分想定できます。お隣の武蔵村山市にも「おびきやま」の伝承があり、入間、所沢市はもちろんのこと、狭山丘陵には新田義貞関連の話題が尽きないようです。