子供みこしのこと
青梅街道のかっての姿を残す蔵敷地区。秋口には灯籠がずらりと並びました。シャン、シャンシャンと賑やかに鈴の音を響かせて御神輿が渡ります。子供の祭りの日です。そのいきさつを『東大和のよもやま話』は次のように伝えます。
「蔵敷に子供だけの祭りがありました。熊野神社の氏子総代が「祭りをやんべえ」と子供達に声をかけます。
子供中は小学三年生からの男の子で、五・六年生が中心になって、一切を取り仕切ります。
子供中は小学三年生からの男の子で、五・六年生が中心になって、一切を取り仕切ります。
毎年秋の蚕が終り、さつまいもを取入れるまでの十月八日、九日が祭りの日でした。
祭りの一ヶ月前になると、子供達は太子堂に集って準備にかかります。
青梅街道の北側に三十本程並ぶ灯ろうは、のらくろなどのマンガや物語を芋窪の提灯屋(ちょうちんや)にかいてもらったり自分達でかいたりして張替えます。みこしの先払いの万灯(まんどう)は、男万灯には銀紙を女万灯には金紙を巻き飾りものをつけます。
祭りの費用は村中一軒一軒もらって歩くおひねりでやることになっているので、全部ツケにしてもらって準備をします。どこの家はいくらと予算を立てました。当時蔵敷は七十軒位でした。おひねりの中身は十銭から二十銭位でした。
祭りの日はみこし小屋を神社の石段の下に作り、神主さんのお祓いを受けます。
みこしは二十人位でかつぎました。白い半袖シャツに半パンツ。タスキに大きい子は大きな鈴を、小さい子は小さい鈴を五ヶづつつけて、シャン、シャンシャンッと村中に響かせました。
夜宮のひるは村中を練り歩き、おひねりをもらいます。会計係の子はもらったおひねりに目を光らせ素早くあらためて、予算より少ないと庭先でいつまでも、いつまでも練ってねばります。家の人が気付かないと最後は大戸にぶつつけます。
また日頃意地悪をしたり、白を黒というようないやな奴は、子供同志であれをやろうと相談しておき、ころあいをみて天水桶に突込んで、日頃のうっぷんを晴らします。みんなでやれば恐(こわ)くないといったところでしょうか。
灯ろうの番人がいて、芋窪や奈良橋から灯ろうやみこしをこわしにくる者を追い払ったりケンカの仲裁をするのに一メートル位の竹の棒を先の方をささらに切って腰にぶら下げ、ザーッ、ザーッと引きづって歩いていました。
青梅街道の灯ろうにランプの灯が入り子供の声が一段と高くなって祭りは盛り上ります。」(p137~138)62
子供達のしっかりぶりには驚きです。このお祭りはいつ頃まで続いたのでしょう。蔵敷の戸数は明治7年(1874)、58戸、昭和13年(1938)、93戸になっています。話の中では70戸としていますので、昭和初年ごろまで行われたと考えられます。どなたかご存じの方お教え頂きたくお願いいたします。
蔵敷公民館の庭に子供みこしのモニュメントが置かれています。(2017.11.20.記)
蔵敷公民館の庭に子供みこしのモニュメントが置かれています。(2017.11.20.記)