かたき討の話(東大和のよもやま話)
天保年間、天候が安定せず、飢饉、物価高が続きました。80%の村人達が飢えて、お互いに融通し合って過ごす中で、行き倒れや捨て子の記録とともに、長脇差や刀を帯びた「無宿」や「渡世人」が渡り歩いたことが伝えられます。
その時、敵討ちがありました。東大和市蔵敷の三本杉、山王神社がまつられている所です。
かって、この側に石塔がぽつんと立っていました。現在は近くの塚前墓地に移されています。
江戸時代には、江戸街道(現・新青梅街道)と中藤村(武蔵村山市)を経て青梅方面へ連なる四街道道(よつかいどうみち)と府中、八王子方面への主要な幹線道路の交差するところでした。
注意して見ないと読み取れませんが
正面には
天下泰平
奉納 大乗妙典供養塔
日光清明
右側面には
天保九年戌年九月十七日 施主 肥後国丈助
その左側面には
助力立会 同行一□
と彫ってあります。
この供養塔を巡っての話です。『東大和のよもやまばなし』は次のように伝えます。
「・・・この石塔は六十年ぐらい昔は山王様に近い駐車場の附近にあって、近くの子供たちが遊ぶ時いつも見たものでした。
石塔は天保九年(1838)九月十七日、肥後国(熊本県)の丈助という人が助太刀の人と共に、討った人の供養のために建てたということが、その銘から判ります。
蔵敷の○○清一郎さんの話によると、安政五年(1858)生れのお祖母さんが
「あの辺でかたき討があったと親から聞いた」
と言っていたそうですが、どんな理由で、どんな風にかたき討をしたのか、討たれたのは誰か、はっきりした状況は伝わって居りません。
小嶋さんは、最近武蔵野美術大学の調査で石塔のことが判ったので、お盆や彼岸の墓参の時には必ずお線香を供えているということです。」(p209~210)
恐らく、府中、八王子方面からか、江戸から中藤村(武蔵村山市)を通って青梅方面に向かう途中だったのでしょう。敵討ちをした方が討たれた人を供養したこととともに、この道筋に様々な出来事が詰まっていることに惹かれます。
(2018.02.20.記)96