阿弥陀堂跡(東大和市高木)
阿弥陀堂跡
高木神社から清戸街道を東に進んだ北側に阿弥陀堂がありました。現在の宮鍋家墓地です。
江戸時代の地誌
『新編武蔵風土記稿』
阿弥陀堂 砂にあり、二間半に三間、本尊八寸許座像なり、
『狭山之栞』
阿弥陀堂 本尊は三尊の阿弥陀如来の座像長一尺及び勢至観音の立像あり。地内に宮鍋氏一家の墓あり。
としています。
阿弥陀堂は昭和37年(1962)に老朽化により取り壊されました。その際、阿弥陀如来像が建立されました。これらのことは「宮鍋一族由来の碑」に詳細に刻まれています。宮鍋一族が狭山丘陵の懐に生活を営み始めてから空堀川近くの「砂」に分家した経過など貴重な歴史が刻まれています。長くなりますが紹介します。
宮鍋一族由来の碑
私達の祖先は鎌倉時代の頃より狭山丘陵の山麓「高木本村」に住み、生活を営むのが始まりです。江戸時代初期より「高木砂」現在の地に分家してきました。そして此の地を一族の墓地として定め、天明初期(1781~89)には七戸に増加し、これを元七軒と称し、幾星霜を経て今日に至りました。
江戸時代の名主宮鍋庄兵衛代表として、他の六名と共に敬仏、宗祖の念篤く、御丈二尺余りの阿弥陀如来を御本尊として三間四方の一堂を建立して隣保相助一族の繁栄を計りつつ念仏や集会を重ねてきました。
そして、世の中の移り変わりをひたすら見守りながら時は過ぎ、お堂も老朽が進み、昭和三十七年取りこわしの止むなきになりました。
平和な時代に生きる私達は過ぎし日を偲びながら再建を願っておりましたが一族の結集が相成り阿弥陀如来像の建立が実現いたしました。・・・ 合掌(後略)
なお、墓地には、承応元年(1652)9月19日建立の「宝篋印塔」(墳墓様式)があります。翌、承応2年(1653)には、玉川上水の開削が行われています。
一族はこれらの動きを見守り、承応4(1655)年の野火止用水完成とともに、武蔵野の原野を旺盛な意欲をもって新田開発に臨んでいたことがわかります。
(2019.05.09.記 文責・安島)