東大和市と玉川上水・野火止用水との関わり
東大和市と玉川上水・野火止用水との関わり
歴史の上でも景観的にも人気のある玉川上水と野火止用水、東大和市とも深い関係があります。両用水とも市の南端にあり、用水の状況が変化していることもあり、
・一体、どこにあるのですか
・東大和市とどのような関係があるのですか
と質問されます。
玉川上水は東大和の市域とは直接には接していませんが、野火止用水は一部を除き市域と接し、小平市との境界となっています。
今回は、玉川上水・野火止用水と東大和市の関わりと現状をまとめます。
一面の武蔵野の原野
天正19年(1591)徳川家康が江戸に移り、狭山丘陵周辺、東大和市域にも直属の家臣が配属されてきます。江戸が未整備のため、家臣は本拠を配属された村に置き、陣屋を構えて統治しました。江戸へは馬で通勤登城しました。その道筋は、江戸城の白壁用材として青梅村の成木から石灰が運ばれる道でもありました。地元では江戸街道と呼びます。
当時の村々は狭山丘陵の麓にあり、南には一面に武蔵野の原野が広がっていました。江戸街道は狭山丘陵西端の瑞穂から田無まで、家が一軒もない曠野を辿りました。
玉川上水・野火止用水の開削
この茫洋とした武蔵野の原野に、突如、玉川上水と野火止用水が開削されました。詳細は別に記しますが
・承応元年(1652)、玉川上水の開削を決定
・承応2年(1653)、四谷大木戸まで開削、翌3年(1654)完成
・承応4年(1655)野火止用水開削
武蔵野の原野に一筋のせせらぎが生まれました。また、現在の西武拝島線玉川上水駅の南から埼玉県野火止の原野へと野火止用水が分岐して流れます。
この状況に目を付けたのが岸村(現・武蔵村山市)の小川九郎兵衛さんです。
明歴2年(1656)、幕府に願いを出します。
青梅から江戸まで石灰を運ぶのに、瑞穂から田無まで一軒の家もなく、困難である、途中に馬継ぎ場を作り、新田村を開発してお役に立ちたい、との申し出です。
同年6月16日、田無村の下田孫右衛門さんから岸村の小川九郎兵衛さんあてに小川新田の開発に異議がない旨の手形が出されています。(『田無市史第一巻』中世近世史料 p667)
この頃、幕府は開発の許可を出したようです。早速、6月から10月にかけて九郎兵衛さんが私費を投じて玉川上水から分水を得て「小川分水」を開削したことが記されます。(『小平市史』近世p52)
この動きを東大和市域の村人達が見逃すはずがありません。
明暦4年(1658)8月、芋窪村の村人達が立野(現在の新青梅街道付近)の新田開発を願い出ている文書が残ります。狭山丘陵の麓からは1㌔近く離れています。岸村小川九郎兵衛さんが小川村開発の許可を得てから2年ほど経過していますから、この間に、麓の旧村からの開発がこの地域まで進んだものと推測できます。
その後も急ピッチで武蔵野の原野は開発され新田に生まれ変わりました。
高木村
寛文9年(1669)、奈良橋境 街道内 街道向 中原
延宝2年(1674)、中南奈良橋境 堀端 中原 堀際 後ヶ谷戸境
後ヶ谷村
寛文9年(1669)、砂の台 江戸街道向
延宝2年(1674)、堀際 水道際
など、絶え間ない努力の結果、延宝期(1673~1680)には、野火止用水際まで新田として耕地を広げました。
ただし、新田と云っても水田は全くなく、全てが畑でした。赤土の上に僅かに乗る黒土では生産力は低く、ほとんどが下下畑にランク付けされました。
このような経過を経て縦に細長い6つの村が成立しました。現在の東大和の市域です。
新田開発は多くの困難を伴ったようです。ここで触れたいのは、村々の境が恐ろしいほどに入り組んでいることです。後に独立性の強い政争の激しい村と評されますが、そのことを物語るように縦に細長い、境界の入り組んだ村が成立しました。大正8年(1919)、大いに和するとして「大和村」が成立するまで、この状況が続きます。
そして、とても残念ですが、玉川上水・野火止用水とも、東和市域の村人は一滴の水も利用できませんでした。
長くなるので、玉川上水・野火止用水の現状については次ぎに続けます。
(2019.05.19.記 文責・安島)