略年譜 現代3 昭和時代1

略年譜 現代3 昭和時代1
昭和元年・1926~昭和29年・1954
 
 
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1926年(昭和元)
・1926年(大正15)12月25日、大正天皇の崩御により、皇太子裕仁親王が皇位を継承して、即日「昭和」と改元。
 
1927年(昭和2)
・大正から昭和にかけて、多摩地方の農業は現金収入を求める農業に転化した。
・大麦や小麦と共に桑や茶の栽培が増加した。
・1927年(昭和2)に始まる金融恐慌と1930年(昭和5)の昭和恐慌は、
・売るために作る農産物の価格を一挙に下げ、
・農村を不景気のドン底におとしいれた。
・4月、西武鉄道(現西武新宿線)東村山~川越間開通
 
1928年(昭和3)
・1月、箱根鉄道(株)が多摩湖鉄道(株)を設立
・4月、多摩湖鉄道が国分寺~萩山間開業
・8月、多摩湖鉄道が村山貯水池~貯水池上~貯水池下間(3.8km/762mm)の免許申請
・10月2日、大和小学校に御真影奉載。
・11月2日、多摩湖鉄道、萩山駅~本小平駅間(1.0km)開業(『東大和市史資料編』2p192)
・東村山駅前に映画館・旭館がつくられた。
・村山貯水池下堰堤北側に村山ホテルを建設。(東村山市 三階建て、昭和36年取り壊し)
 
1929(昭和4)年
・6月、山口貯水池地鎮祭行われる。
・7月、鉄道省、多摩湖鉄道株式会社に対し東村山~山口村(村山貯水池~宅部)間の鉄道敷設を免許。
 
1930年(昭和5)
・1月23日、多摩湖鉄道萩山駅~村山貯水池(仮)間開通。
 (村山貯水池(仮)駅は現在の武蔵大和駅
・4月、西武鉄道(もと川越鉄道)村山線支線東村山~村山貯水池間開業。
・7月5日、蔵敷高札場が都の史跡に指定された。
・10月1日、第3回国勢調査
 994世帯 人口5,442 男2,667 女2,775 1世帯当たり人員 5.47
・昭和恐慌
◎村は「不況対策生活改善協議会」を設置、
 
1931年(昭和6)
・9月18日、満州事変勃発。
 
1932年(昭和7)
・10月1日、東京市が「20区」を新設した。
 従前の15区と合わせ35区、人口580万人となった。
・10月、山口貯水池通水式を挙行。
 
1933年(昭和8)
・9月、狭山富士が完成
 工事の残土を利用、三つの湖(村山上、下貯水池、山口貯水池)を展望できる。
・10月1日、農村経済更生指定村に指定される。
・軍民共用であった立川飛行場が陸軍専用基地となった。
 
1934(昭和9)年    
・3月、大和村負債整理委員会を設け、各部落に負債整理組合が設立された。
・農産物価格が安く、購入品が高いため、
・農民は負債を重ねた。それが積もって生活を一層困窮させた。
・その整理のため、負債者が組合を作り、 
・政府の融資と自己努力によって負債を整理する方式である。
・3月、大和尋常小学校を増築した(郷土概観 昭和13年10月30日p6)。
・4月、山口貯水池竣工式。
・7月、大和郵便局開設。郵便、電話、電信業務を行った。
◎東京市長牛塚虎太郎が退職金1万円を桜復興のため東京市に寄付。
◎服部時計店服部金太郎遺族桜苗木1万本を寄贈。1934年(昭和9)
 
1935年(昭和10)
・6月30日、青年訓練所と農業公民学校を廃し、青年学校を設立。
・10月1日、第4回国勢調査
  世帯1.049 人口5.780 男2.821 女2.959 一世帯当たり人員5.51
 
1936年(昭和11)
・2・26事件。
 ・不況、経済的混乱が続き社会問題が増発する中での
 ・村の建て直しに、経済更正計画を立て、
 ・負債整理組合を構成して問題解決に当たる一方で、
 ・この時期特有の精神運動が繰り広げられた。
・12月30日、 村山貯水池(仮)駅~村山貯水池駅間(0.9km)開業
 (村山貯水池(仮)駅は武蔵大和駅に改称のうえ現在位置に移設)
 ・輸送力は路面電車並だった。
・12月、玉湖神社の社殿竣工(ご神体の鎮座は12年1月)
 
1937(昭和12)年
・7月1日、経済更生委員会 更生計画をたてる。
・7月7日、日中戦争はじまる。
・10月、東京陸軍航空学校設置。
 村山村中藤山林(大南3・4丁目)にあった立川飛行第五連隊(千葉県柏へ移駐)の射爆場跡地を転用。
・11月22日、戦死者村葬 3名
・12月11日、国民精神総動員実行運動実施事項を定める。
・昭和12年末人口動態
 戸数991戸 人口5,929 男2,814 女3,115人
・村山貯水池の防空偽装始まる。
◎大和村農民道場開始。
 中堅人物となりうる青年男女を育成、経済更生への第一歩。
 
1938年(昭和13)
・4月1日、国家総動員法公布=戦時体制強化
 10月、本工場完成、設備機械搬入・取り付け。
 
1939年(昭和14)
・1月~2月、東京瓦斯電気工業(株)立川工場先遣隊入所。
・3月、消防組を改組し、警防団を設置した。
・4月26日、青年学校令が全部改正された(昭和14年4月26日勅令第254号)。
・男子のみ普通科2年・本科5年の計7年が義務教育化された。
・『狭山の栞』出版
・12月、

・12月、都市計画法による立川都市計画区域となった。(立川町ほか10か村)
 立川町・日野町・昭和村・砂川村・谷保村(当初案)
 拝島村・村山村・大和村・国分寺村・福生村・熊川村(都市計画東京地方委員会で審議、追加)
 
1940年(昭和15)
 人口 8,929人 戸数1408戸。
・6月、砂糖、マッチなど最初の切符配給制実施。
・10月1日、第5回国勢調査
  世帯1.399 人口8.152 男4.451 女3.701 一世帯当たり人員5.83
・12月1日、立川町が市制施行、立川市となる。
 
1941年(昭和16)
・3月4日、大政翼賛会大和村支部が発足。
・4月、米の配給制度実施。
・4月、大和尋常高等小学校を大和国民学校と改称。
・12月8日、太平洋戦争開始。
・12月13日、「大東亜戦争戦捷祈念村民大会」が開かれる。
・12月、村山貯水池畔に高射砲などの軍事施設が設けられる。
◎日立航空機工業(株)青年学校、約3,000人が在籍。 
 
1942年(昭和17)
・2月1日、衣料総合切符制の開始。
 マッチ、せっけん、タバコに至るまで、日用品のほとんどが配給制となる。

・4月1日、東村山村が町制施行

・日立航空機1000馬力の発動機の生産に着手。
・隣組が大政翼賛会の下部組織となった。
・防空訓練を5回、一般家庭の防空施設の一斉検査を実施した。
 
1943(昭和18)年
・7月1日、東京都制施行 東京都となる。
・8月、旧都市計画法による用途地域の指定
  東大和駅周辺・商業地域 現在の桜が丘・工業地域、残りは住居地域
・防空警報用サイレン吹鳴試験4回、防空教育訓練、総合防空訓練実施。
・防空強化日制定
 
1944(昭和19)年 
・2月1日、小平村が町制施行
・4月10、疎開者収用建物実態調査を実施。
 東京近郊の農村として、空襲される恐れのある都市の人々を受け入れる役目。
・9月、日立航空機(株)立川工場就業者数最高の13,896人となる。
  8時間、三交代制となる。
・灯火管制訓練、家庭待避所(防空壕)、防空設備の強化、軍官民連合防空訓練の実施。
 
1945(昭和20)年  
・2 月17日午前7時、警戒警報。
 午前 10 時20 分、 60 機編隊、立川飛行機(株)砂川工場を銃撃。
 午前 10 時20 分~30分、30機編隊、日立航空機立川発動機製作所爆撃と機銃掃射。
 村山貯水池の高射砲が撃ち、1機に命中、パイロットがパラシュートで脱出。
・3月5日、大和村防空委員制度制定。
・4月7日、第一回目、松根油取り出し(『東大和市史』p87)
・4月14日、15日、東京が大規模焼夷弾爆撃を受ける
・4月19日、P51戦闘機50機、B29を3機同伴。
・4月24日、午前7時30分警戒警報。
 工場壊滅状況。27名が死亡。大和国民学校に負傷者収容。
・5月16日、高木の鎌田泰三郎家に大和村地下救護施設が作られることになった。
 各部落から毎日1名づつシャベル持参で出勤することになる。
・5月24日、25日、東京が大規模焼夷弾爆撃を受ける
・5月25日、P51が下貯水池と山口貯水池の取水塔めがけて爆撃。
・5月25日、大和村常会に、村長を隊長とする「国民義勇隊」の組織が指令される。
・6月、日立航空機立川工場の疎開工場として、横田のトンネル使用のため、疎開を開始、
 8月に完了。 8月15日終戦のため、ほとんど稼働しなかった。
・6月23日、沖縄戦終結
・8月1日~2日、八王子大空襲。
・8月6日、広島に原爆投下。
・8月9日、長崎に原爆投下。
・8月15日、正午、昭和天皇のラジオ放送で、降伏発表。
◎9月初旬、立川発動機製作所に米兵約40名進駐(小松ゼノア社報第130号p33)。
 町の戦死者 計212人。
・11月12日、赤坂国民学校児童帰宅。
 その後、蓮花寺に戦災孤児13名が入寮。
・青年団結成。
 
1946(昭和21)年   
・物資厳しく、配給制度危機。農産物と着物などの物々交換。
・食料の買い出しに来る人多くなる。日立だんなと日立乞食
・1月20日、立川発動機製作所 賠償工場に指定される。(小松ゼノア社報第131号p35)
 日立航空機の株主興業銀行から管財人派遣、戦後処理。
 国からの借金を返済するため工場跡地の一部、社宅を物納。
・5月、旧日立航空機青年学校校舎の一部を借りて、
 大和国民学校の仮校舎とする。南街地域の児童(4年生以下)の教室とする。
・6月10日、日立航空機工業(株)が日興工業(株)と社名変更
  民需転換品の製作(小松ゼノア社報第141号p49)
  消防ポンプ、メリアス織機、スレート瓦製作(小松ゼノア社報第108号p10)
・11月20日、大和村青年団結成
 
1947(昭和22)年  
・3月、大和青年学校廃止
・4月1日、六三制の実施により、大和国民学校を大和小学校とする。
・4月1日、大和中学校創立。校舎は大和小学校の一部を借りる。
・5月3日、日本国憲法、地方自治法施行。
・大和村農地委員会発足(小作5 自作2 地主3)。
 土地の一筆調査を実施。
・日立航空機立川工場が富士自動車(株)立川工場となる。
・町内会、部落会解散。
・農地解放による農地の買収始まる。
・9月、日興工業が工場敷地を西武鉄道に売却(『東大和市史資料編』1p116)
  概算 719,707平方メートル(約217,711坪) 
    内 工場地区概算 396,700平方メートル
      林間地区概算 328,100平方メートル
・9月8日、中学校、日立青年学校校舎を借り、第一小学校の仮校舎から移転。
・10月1日 第6回国勢調査
 世帯 2.310 人口11.746 男5.773 女5.973 一世帯当たり人員5.08
・11月、教育委員会発足
・大和村農地委員会発足
・大和村農業会を解散し大和村農業協同組合を設立。
◎貯水池愛護会発足。貯水池のくずはきはじまる。秋から機関紙「狭山」創刊。
 
1948(昭和23)年 
・3月5日、大和村農業協同組合設立。 
・3月、南街に小学校PTA発足。南街分校PTA
・西武鉄道東村山~村山貯水池前(旧狭山公園)間再開。
・12月26日、青年学校校舎を買収。
 
1949年(昭和24)
・6月、PTA発足
・都営バスが東大和市内に通った。
・11月、立川バスが貯水池と立川を芋窪経由で結ぶ路線を設けた。
 
1950年(昭和25)
・首都圏整備計画近郊地帯に入る。
・建築基準法適用
・5月15日、西武鉄道上水線、小川~玉川上水間を開通。
 青梅橋駅が出来た。
・5月、西武鉄道、村山貯水池前駅を移転し、西武園駅と改称。
・6月、朝鮮戦争開始
・佼成霊園墓地用地、立正佼成会が日興工業(株)より買収。
・10月1日、第7回国勢調査 世帯2,309 人口総数 12,366 男6,124 女6,242 一世帯当たり5,36
・11月1日、買収した旧青年学校校舎を中学校校舎とした。
・11月11日、村山貯水池が「観光地百選」(毎日新聞社主催)に選ばれた。 
  
1951年(昭和26)
・1月、村山貯水池が「都立狭山自然公園」に指定された。 
・大和村農地委員会を解散し、大和村農業委員会を設立。
・8月、西武鉄道多摩湖線村山貯水池駅を多摩湖駅と改称。
・10月、南街自治会結成。
 
1952年(昭和27)
・3月21日、第二回狭山湖駅伝大会。
 西武鉄道所有地を米軍基地にする目的。
・11月23日、狭山湖秋の駅伝(第一回)実施される。
・12月11日、村長が各種団体の代表を集め説明。
・12月16日、兵舎設置予定地に近い大和中学校職員が職員会議。対処の仕方を論議。
・12月22日、中学校の生徒代表、米軍兵舎設置反対声明文を村長に提出。
・12月25日、在日合衆国軍兵舎建設反対期成同盟村民大会(第一小学校校庭)を開いた。
 
1953年(昭和28) 
・1月7日、第2回在日合衆国軍兵舎建設反対期成同盟村民大会(中学校)。
・2月6日、米軍兵舎設置反対の幟を立てて、国会陳情。
・2月27日、土地収用認定告示。
・3月5日、兵舎設置の公文書が届いた。
 西武鉄道所有地を米軍兵舎用地として土地収用法に基づき政府が買い上げ、国有地となった。
・3月21日、第三回狭山湖駅伝大会。
・4月3日、反対期成同盟は解散。
・5月1日、大和小学校南街分校を開設。(現・第二小学校位置)
・5月14日、校正霊園開園。
・6月30日、東京都収用委員会で米軍兵舎対象土地収用決定。
 
1954年(昭和29)
・4月、米軍大和基地兵舎工事完成。1956年(昭和31)2月24日、正式開設。
 人口13,052人 2,483世帯。
・人口、戸数、交通などが村の形態から都市的形態にあり、商工業、住宅地として発展する可能性があるとして踏み出した。
 
 
 (2021.08.12.記 文責・安島)