蔵敷調練場6の2 江川農兵と調練2

蔵敷調練場6の2 江川農兵と調練2
蔵敷村への調練場の新設

 話題を蔵敷調練場に移します。
・元治2年(1865)3月、幕府は武蔵、相模、下総の三国にある直轄領の支配替を実施しました。
・そのため、これまでの上新井村組合の区域に、江川領域ではない部分が生じました。そこで、再編成をして
・新たに「蔵敷組合」を構成しました。次の11ヵ村です。
 野塩、日比田、久米川、南秋津、野口、廻田、宅部、奈良橋、高木、後ヶ谷、蔵敷村
・調練場は野口村に置くことになりました。
・しかし、元治2・慶応元年7月1日江川代官所から下記の通知が来ました。

蔵敷調練場決定、現地見分の通知 元治2・慶応元年(1865)7月1日 江川代官所 クリックで大

 長文ですが意訳します。

 蔵敷分組合農兵の稽古場は野口村地内にこしらえる(補理)積りであったが
 先般略図(麁絵図)が差し出された場所を見分する者を差し向ける。
 この書類を持って明日二日に稽古人が行った時に返事をするように。
                江川太郎左衛門手代 増山鍵次郎
    元治二・慶応元年七月一日
           蔵敷分 後ヶ谷村 野口村名主へ

 上の書類は、七月一日野口村正福寺へ組合村の役員が出会った席へ
 恒吉と後ヶ谷名主が持参したので、役員一同が話し合った。
 野口村には土地がないので蔵敷村の地内にこしらえてくれるようにと
 野口村の名主が申し出た、その他の村の役員も同じように云うので
 やむなく蔵敷村の中に設けるように受け入れた。明日二日村々の役人衆が
 場所を見分するように話し合って帰宅した。

二日、蔵敷村名主宅に集まった
 後ヶ谷村名主、奈良橋村組頭、宅部村名主、野口村組頭、粂川村組頭
 南秋津村組頭 蔵敷村名主
の七人で、蔵敷村の百姓銀右衛門が持つ畑の内山王塚下々畑約三反歩の場所が
練習場、角打場などによろしいと、とり決めた。
 作徳分(年貢を出したあとの取り分)として一年に二両を渡す
 二両は組合村々の高割りで算出、分担する
  蔵敷名主宅より南へ修練場所までおよそ五丁余

 以上 提出した略図の通り相違ありません。
           武州多摩郡蔵敷村名主 内野杢左衛門
   七月二日
 江川太郎左衛門手代 増山鍵次郎様

・こうして、現在の東村山地域に置くことに決まっていた調練場が蔵敷村に置くことになり
・7月3日、次の通り、蔵敷分組合農兵稽古場麁絵図(略図)を江川代官所に提出しました。(『里正日誌』8p364)
・そのまま許可になったようです。

蔵敷調練場麁絵図(略図)『里正日誌』9p177
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位置

 明治6年(1873)の蔵敷村絵図ですが、砂の川(空堀川)を南になだらかな下り坂になる直前の山王塚(芝中)の地に調練場は設けられました。
 図では日枝神社となっています。
・山王塚、三本杉とも呼ばれる塚があり
・人家から離れてはいますが日常生活圏で
・江戸時代初期に新田開発された地です。

蔵敷調練場位置図(明治6年1873)
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調練場 現在の状況 蔵敷三丁目
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古文書を読む場合の注意

 これまで紹介した古文書には「蔵敷分」「蔵敷村」「蔵敷組合」「蔵敷村組合」とかが出てきます。
◎「蔵敷村(分)」が借り上げた銃が、農兵組織の「蔵敷組合」で訓練に使われています。
◎言い換えれば、「農兵の組合」ではなく、従来からの行政上の「村」が借り上げた銃を
 「農兵」が訓練に使ったことになります。
当時は
①ずっと古来から発展して来た、行政上の村である「蔵敷村」
②文政12年(1829)に結成された所沢組合村の組織の一つである行政上の「蔵敷村組合」
③文久3年(1863)に設けられた上新井村組合(農兵組合)の一区域をなす農兵「蔵敷村」
④元治2年(1865)3月、上新井村組合から江川領が分離してできた農兵「蔵敷組合」と
◎①「行政上の古来からの村」と②「行政上の組合村」と③④「農兵の組合村」の4つが併存していて
◎相互に農兵に関わり合っていた時代でした。
◎古文書を読む場合、この区別に注意が求められます。

調練場の構成

 調練場は次の構成になっていました。

・射垜(しゃだ 鉄砲の的を架けるために土を盛り上げた場所)
 図面西北側に設けました。
・屯所(とんしょ)桁行5間、梁間2間(図では位置が不明)
 休憩場でした。様々な掲示をしました。
・訓練場 その他全域
◎詳細な図がないのが残念です。

調練場規則

 調練場の屯所には規則書などが張り出されました。

「規則書」
①火器取り扱いには慎重であること。
②修業の志は浮薄であってはならず真実の修業を心がけること。
③出席中の雑談の禁止、隊伍中は軍中と心得ること、
④鉄砲・附属品とも大切に取り扱い手入れも入念に行うこと。
⑤礼節を重じ、人の善悪、芸の巧拙、他組合の誹謗など決してしないこと。
⑥弁当は握飯とし香物は味噌または梅干に限ること。
⑦稽古着は質素にすること。
⑧稽古場に通う往復は、がさつな振舞のないようにすること。
⑨爆薬の取り扱いは入念に注意のこと。

などで、鉄砲・火薬の慎重な扱い、礼節を重んじ、誹謗・中傷には気を遣っています。

 また、訓練場には厳しい定めがありました。

「定」
・砲術の基礎訓練が始まったならば、訓練場所の外へみだりに出てはならない。
 緊急の用で誰かと面会するときは、そこに出張している村役人を通じて
 農兵世話役に届けでて許可をとってからすること。
・基礎訓練中に貸与された銃については、すべて農兵世話役の指示により取扱うこと。
・訓練中の飲酒は禁止。また弁当は祖飯を用いよ。米の飯は決して使わないこと。
 元来の身分をわきまえて、すべて質素節倹につとめること。
・総じてお互いに行儀正しくし、礼法をこころがけ、喧嘩や口論はもちろん、無益な雑談は禁止する。
 粗暴なふるまい、おごりたかぶったふるまいをやめ、謙遜な態度をとるのが一番である。
 などが定められています。
 良くも耐えたと思いますが、村を守る責任感から、懸命な稽古をしたと伝えられます。
 ◎訓練・定めの全文はここをご覧下さい。

訓練の栞

 東大和市に「農兵訓練の栞」が残されています。
 農兵の訓練の大要がわかります。下記画像で開いているページでは
第三教 「斜行進」の進み方の方法
 ○斜右(左)進め
 ○前へ
第四教
○「足踏をしながら」前に進み、後ろへ下がり、また前へ進む方法
○小隊 止まれ
 ・急歩(駆け足)で行進するときは時々銃を構える それは20歩の間とする
  (駆け足で行進するときは20歩ごとに銃を構える)
 ・二・三回銃を撃ったあとに、直ちに銃を構え、駆け足で前進すること
  20歩、30歩ごと

農兵訓練の栞 「2019年7月20日~9月30日 東大和の歴史展~激動の幕末・明治期をさぐる」展示(撮影の許可を得ています)
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左ページ
第三部
一教 側面行
○小隊右向け
・・・
左側行進も同じ
○組々が一緒になり、小隊は時には右、時には左に向け
○小隊は前へ 組々は一緒になり 分かれる

 と訓練の在り方が記されています。ここに出てくる組々、小隊は農兵調練場5で紹介した隊伍仕法によるものです。

 このような訓練を経て、蔵敷組合の農兵は、村に来る無頼への防備、武州世直一揆一への対応など責務を果たします。
 また、江戸市街警備、幕府と長州藩の戦争に大阪出兵を命ぜられるなど難しい対応に迫られることもありました。
 それらについてはページを改めます。農兵に関する一連の資料が東大和市郷土博物館に保存されています。

蔵敷組合で実際に使われた農兵の服装や鉄砲
平成25年(2013)東大和市立郷土博物館で展示(許可を得て撮影)
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 蔵敷組合の旗 ケーベル銃 農兵隊洋服 左下・韮山笠・胴乱とベルト 洋服の間・ゲートル・ベスト・陣笠

 (2022.03.19.記 文責・安島)

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