「村」と認めよ!「分」 付きはご免!!(東大和市 蔵敷)

「村」と認めよ!「分」 付きはご免!!(東大和市 蔵敷)
 
充分に自立した村にもかかわらず
 
「蔵敷」が地域、人口、生産高など充分に独立の村の状態にありながら、
村と認められずに「奈良橋村 蔵敷分」として
奈良橋村の一分野に扱われます。
 
「こんなことで、いいのかよ!」
堪らず、村人たちが独立運動を推し進めます。

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①東大和市域内の江戸時代の村の構成です。
 上図のようにお互い同士が村として認め合い
 堂々と一村として蔵敷村があります。
 
②さらに、下は、幕末の農兵設置の時の各村の関係図です。
 村の安全確保、ペリーの来航を契機に江戸湾防備などの危機に
 狭山丘陵周辺の村々が集まって「組合村」を設けて対応しました。

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印の村で農兵組合村を構成しました。(文久3年(1863)11月) 
・後ヶ谷村(うしろがやむら)、高木村、奈良橋村、蔵敷村が当時の東大和市域の村々です。
 奈良橋村・蔵敷村とそれぞれ普通の村として扱われています。
・しかも、各村協議の結果、蔵敷村が11ヵ村の代表になりました。
・そして、「蔵敷組合」の名称をつけています。
◎これは、この地方を統治する江川代官所も認める組織です。
 しかし、村についての公の扱いは依然として「奈良橋分 蔵敷」でした。
 
「奈良橋分 蔵敷」の代表例
 
安政6年(1859)2月、江戸湾整備の経費負担を命じられた時の村々への回状です。

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 蔵敷は奈良橋村とほぼ同じ額を命ぜられながら「蔵敷分」として扱われています。
 
「これじゃ、負担するのが、やんなっちゃうぜ」
「ほんによ」
「奈良橋とは、銀三匁の違いだぜ」
 
蔵敷村の陳情
 
「こんなことじゃ、ほんこにしょうがねえ」
「ちょくに、江川様に訴えベエ」
 
蔵敷村の人々は、ついに、直属の領主・江川太郎左衛門に陳情を開始します。
万延元年(1860)、次の文書を提出しました。
ここでは一部だけ紹介し、意訳して、全文は別に記します。

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意訳
 私共の村は、往古は武州滝山北条家領知であったと申し伝えられております。
 家康が関東入国後、天正20年(1592)2月25日、石川太郎右衛門が
  奈良橋高 百六拾七石七斗七升、
  蔵敷高  百六拾弐石弐斗三升、
  都合高  三百三拾石
 を領地としました。
 
 その後、享保十八(1733)に石川氏は上知し、御代官所の御支配となりました。
 私共村方はもともと奈良橋村と別村で、
 石川氏が上知して、御料所になった時の割附・御目録等に蔵鋪村と認られています。
 その古書物を所持しています。
 それが、今もって奈良橋村之内蔵鋪分で、「蔵敷分」と呼ばれます。
 その子細はわかりません。振り返ってみると
 
 ・享保時代まで御地頭が在住の節、奈良橋・蔵敷の境目に地頭所の土蔵がありました。
 ・土蔵より西の方は蔵敷村が年貢を納める土地で、収穫物は蔵の修覆料に当てられ
 ・東の方は奈良橋村分で、御勝手向諸賄に宛てられたと
 ・古老の者より次第に申伝えを受け、承知しております。
 
 ・このため、私共の村方は私領中 蔵敷分と唱え 年貢を取立なされて来たことより、
 ・自然に「分」が移り来たように愚察しておりますが、
 ・元来、別村である印(しるし)は当村分御検地帳は勿論、
  御高札場の儀も往古より名主杢左衛門居屋敷前に別段に取建てあり、
 ・村内名所字名に至るまで奈良橋村と混っている場所は一切御座いません。
 ・以上によって、古来に回復し、「奈良橋村の内」と云う肩書を取り除き、
 「多摩郡蔵鋪村」と諸事御唱替をお願いします。
という内容です。
 
 村人たちは、本腰になったのでしょう。別文書で、この願いが達成すれば、100両を寄付すると伝えます。
「御本丸御造営御用途金」です。
 そこで、興味を引くのが、この訴えを起こすに当たって相談したのが、江戸の定宿・和泉屋の主であることです。100両寄付もそこに出てきます。次に続けます。
 
 (2023.07.05.記 文責・安島喜一)