大がかりな所沢寄場組合(八州廻り・文政の取締改革)
大がかりな所沢寄場組合(八州廻り・文政の取締改革)
当初は、村人達の反発もあった八州廻りは、費用や協力体制の上から、次第に定着します。そして、狭山丘陵の南麓には、文化4年(1807)、早々と浪人取締組合村が設置されていました。1800年代、村の荒廃は更に進んだようです。武蔵村山市史は次のように記します。
「家や土地を失い村を離れた農民たちは、遊民となって江戸や周辺の都市部へ流入したため、農村人口は減少し、荒廃地は増大するばかりであった。こうした遊民のなかには無宿や渡世人となって長脇差や刀を帯びて横行したり博奕に耽るなど治安が乱れていくようになった」(下p1115~16)
この状況から、各地で無宿、浮浪人対策が進む中で、文政10年(1827)、狭山丘陵周辺の村の名主達が所沢に招集されました。
関東取締出役から大がかりな組合結成の趣旨が説明され、早急の対応を促されました。文政の取締改革とも云われる農村の組織化です。
幕府領・私領・寺社領に関係なく3から5か村を小組合とし、小組合を10前後集めて大組合を組織する。
・小組合に小惣代、大組合に大惣代を置く
・取締組合の中核となる村を寄場とする
・寄場には寄場役人を置く(名主などの村役人から任命)
・犯罪人の捜査・逮捕などの協力や費用の負担は村方とする
寄場組合の職務
職務は次の通りでした。
前文5か条と後文40か条から成り立っています。大幅に要約します。
①無宿・悪者・無商売者・博奕の取り締まり、
②来村者への警戒、強訴・徒党の企画者の密訴
③村入用の軽減、神事祭礼・婚礼・仏事の質素倹約、
④歌舞伎・手踊り・操芝居・相撲、若者仲間の禁止、
⑤農間余業の取り締まり、
⑥忠孝奇特者の顕彰、
若者仲間の禁止、農間余業の取り締まりなど気になることがありますが、各村は、趣旨を承知した旨の請書を提出しています。
所沢、拝島寄場組合
この結果、東大和市域付近では大組合に48ヵ村からなる所沢村組合が設けられました。その中で、小組合として
東大和市域
・蔵敷、奈良橋、高木、宅部、後ヶ谷、清水村
東村山市域他
・野口村、廻り田村、久米川、大岱(おんた)、中里、野塩、南秋津村
が一緒になって、蔵敷組合をつくりました。代表者には蔵敷村の内野杢左衛門が就きました。
◎組合の中心となる地を寄場(よせば)として、所沢寄場組合とも呼びます。
多摩郡、入間郡の村々が多摩・入間の郡界を超えてまとまりをもちました。その一方で、
◎芋窪村は拝島村組合に属しています。当初、芋窪村も所沢村組合に含まれるはずでした、しかし、なぜか、外されています。
当時の村人達の気持ちが気に懸かります。さらに、以後、諸統計も組合が違うため統一が取れず、困りものです。
非常駆付人足
組合村には取り締まりの出動要請があり、参加を義務づけられました。その一例です。
嘉永2年(1849)8月28日、八州廻りからの博徒狩りへの出動要請がありました。村人達は竹槍持参で参加しています。
「組合村の目印として赤色の短冊を鬢に結び「所沢組合」と大書した幟を掲げていた」
と『多摩のあゆみ』150号(p15)で牛米 努氏は博徒狩りの出で立ちを紹介しています。
この事件では蔵敷村の内野杢左衛門が蔵敷組合の村人を指揮して成果を上げたことが里正日誌に記されています。いずれ紹介します。
文政の組合は明治まで続く
この組合村は明治初年まで継続しました。個別の村を超えた広域の機能を果すとともに幕末の世相を告げ、転機が迫っていることも予測させます。
明治3年(1870)再編されて、小川村寄場組合に変わり、明治4年(1871)に廃止されました。次に続けます。
(2018.09.16.記)