羽村堰の工事に入札!(寛政3年・1791)
羽村堰の工事に入札!(寛政3年・1791)
江戸時代です。
「玉川上水羽村の堰が台風でやられた、工事をするので、入札に参加しないか」
との回覧が村々に回りました。
最近、士農工商の身分制が見直されています。それにしても、狭山丘陵周辺の農村の百姓には、農業中心的な枠があり、工事に入札で参加するとはにわかに結びつきません。
しかし、18世紀も末になると民間の経済活動の活発さ、事業者、あるいはその集団の成立は大きく進んでいました。
寛政3年(1791)のことです。玉川上水取り入れ口、羽村の堰が相次ぐ風雨により壊れました。
現在の水門、取水堰の状況です。
・取水堰で多摩川の水を水門へと導き
・水門から多摩川の水を取り入れ
・小吐口で、水門の中にたまった土砂を吐き出し、余水を放流
・第二水門で玉川上水への取水量調整
をしていました。江戸時代には木製であり、形は大きく変化していますが、おおよその位置と機能は継続されているようです。
このどこかが破壊されました。
これらの第一水門、第二水門、取水堰の何れかが破壊され、修復工事について、「入札」をするから、参加希望者は申し込めとのお触れです。
蔵敷村にその文書が残されています。
玉川上水羽村堰、普請入札のお触れ
お触れの文書から要点を意訳します。
・玉川上水の水元である羽村の堰の普請について
・これまでは村外(江戸)のきまった請負人が普請、修理の工事をしていたが
・辞退したので、入札をする
・村内に希望がある者は、来る10日午前8時に
・羽村御普請方陣屋へ来て
・発注する工事の内容ややり方をきっちり調べて
・間違いないようにせよ
・先年の御普請の時は、最も安い価格で行った
・今回も、入念に吟味して最低価格で見積るように申し渡す
・入札の日は追って知らせる
このことを村の名前、名主・年寄りの印鑑をおして早々に知らせよ
この回状は最後の村から陣屋へ戻せ
以上
御普請方 羽村陣屋 (原文は別に記します)
お触れの出た寛政3年、風雨による大荒れの年
寛政3年(1791)は8月の天候不順により大雨が続き、各地で被害が広がりました。
多摩川の増水により羽村の堰が破壊されました。
・8月6日、武蔵、相模大風雨。(『東京百年史』別巻p105)
・8月7日、関東筋の川々洪水、行徳水没。(『東京百年史』別巻p105)
・8月20日、大風雨。(『東京百年史』別巻p105)
・8月、諸国大水(『里正日誌』3p104)
・9月4日、大嵐、高潮が深川須崎を襲う。(『東京百年史』別巻p105)
・9月7日、玉川上水羽村堰普請の入札触書出される。(『里正日誌』3p105)
村々にこのような工事を請け負う事業主体が活動する状況が生まれていたのでしょうか?
周辺、前後の整理をしてみました。
・承応元年(1652)、玉川上水が開削される際には、上水奉行が設置されていました。
・承応2年(1653)、玉川上水が開削されました。上水の管理は開削に当たった玉川庄右衛門、清右衛門が当たります。
・寛文6年(1666)、神田上水・本所上水奉行、玉川上水奉行が置かれました。(東京都水道史p74)
・寛文10年(1670)、上水の管理を江戸の町年寄(奈良屋市右衛門・樽屋藤左衛門・喜多村彦兵衛)に命じました。
これまで管理に当たっていた玉川庄右衛門、清右衛門は町年寄の差添支配となりました。(東京都水道史p74)
・元禄6年(1693)、上水の管理は道奉行が兼務することになりました。
・元文4年(1739)、上水の管理は町奉行に変わり、玉川兄弟が不正な行為をしたとの理由で罷免されました。
町奉行は町年寄に事務の取扱を命じ、請負人2名を置きました。
鑓屋町(やりやまち)名主伊左衛門、大鋸町(おがちょう)名主茂兵衛が任命されました。(東京都水道史p77)
◎この年から翌年にかけて、町年寄の用水見分、高札の建て替え、用水の堀変えと慌ただしい日々が続きます。
・明和5年(1768)9月、上水の所管を町奉行から普請奉行に移しました。
・明和6年(1769)11月、上水請負人、見回役が廃止されました。(東京都水道史p79)
・明和7年(1770)6月、小川村から 玉川上水を利用して、小川村~四谷大木戸、内藤新宿(天竜寺)間の船による物資の運搬計画が出願されました。
不許可です。
・寛政年中(1789~1800)羽村堰の管理について「定式御普請人足役」が義務づけられて、
羽村、川崎、福生、熊川、砂川、箱根ヶ崎、新町、千ヶ瀬、河辺、友田、草花、五ノ神村の12ヵ村がこれに当たりました。
普請は次の2種に分かれました。
・急破御普請 玉川出水時の緊急、臨時大動員
一峰院の梵鐘で緊急動員 12ヵ村では高100石について50人が出動しました。
・水仕掛け 平常時の人足提供
12村が月番で当たりました。
◎この状況から『福生市史』は次のように指摘しています。
「羽村を中心に、年間のほとんどを羽村堰にかかわる賃稼ぎで生計を保っている、なかば無産者化した農民が相当数散在していたものと考えられる。」(上p566)
・寛政3年(1791)9月7日、羽村堰修復入札呼びかけのお触れが村々にまわる。
・希望者が入札の結果
羽村村の坂本家・指田家、福生村の田村家などが請け負いました。
・触れの中で、くどいように、最も安い価格を繰り返しますが、この対応に『福生市史』は次の点を指摘しています。
「いわゆる談合を防ぐために「地割棟梁」というのが役人とともに江戸からやってきて、自らも入札に参加し、もっとも低額で入札した場合には、この地割棟梁が請負うという方法がとられていた。」(p570)
なかなかのものと感心します。
なお、東大和市は、一見、玉川上水と区域が接しているように見えますが、直接には接していません。用水北側に立川市域(江戸時代は砂川村)があります。
そして、玉川上水からの一滴の水も利用は認められませんでした。
東大和市域内の村々に、その機会はなかった
入札の触れは狭山丘陵周辺の村々にも回覧されました。
回覧はされましたが、実質的には、先に記した堰のある地元の実力者が応札して工事に当たったようです。
これらの実力者は工事請負人として
・資材の調達
・工事人の雇い入れ
など、地元からの資材の購入、賃金の支払い等を通じて、地元産業の振興をはかる任を果たしています。
この地域に、新しい産業の基盤がつくられてきたと考えられます。
◎今後の地域史を調べる上で、この時代の特徴を把握すべき事を強く印象づけられました。
東大和市域の村々では、このような機会が無かったため、江戸市中への駄賃稼ぎが主になっているようです。
『里正日誌』は
・関東河川の大出水により、普請の自粛、籾納めの中止
・出水荒場にも雑穀蒔き付け
などの記録が続き、玉川上水工事についてはプツンと切れます。
工事の規模は、請負金額はいくらだったのか、その資金・財源はどこから出されたのか、
工事の期間は、資材は、賃金は・・・?
知りたいことだらけです。
中途半端で残念ですが、時代が大きく変わろうとする時期の入札とその触書をご案内しました。
(2020.10.27.記 文責・安島)