蔵敷調練場5 農兵制度の運営
蔵敷調練場5 農兵制度の運営
東大和市域の村々からも農兵が選ばれ、実働のための訓練がされました。
このページでは農兵が選ばれた背景、献金、農兵の組織などについて書きます。
村々の農兵
農兵はどのようにして村人の中から選ばれたのでしょうか?
・選挙や徴兵ではありませんでした。
・特別の定めがあったのかどうか不明です。
・東大和市には明確な資料が残されていません。実態から推測します。
・農兵の置かれた目的は
・江戸時代末に起こった開国、尊皇攘夷、飢饉、物価高騰など経済の不安定
・長脇差し浪人の浮浪、村人の逃散、村一揆などなど、村の混乱
の状況で、銃を持って地域の安定に寄与することでした。
・そこで、村々の代表格が集まって、話し合いで選ばれたのでしょうか
・次の資料の通り、最初の農兵の多くは、
・村々の名主、組頭や裕福な農民層の倅が選ばれています。
・文久3年(1863)11月19日、江川代官所に提出された農兵書上帳から引用します。
・最初の部分です。
・選出の基準などは示されずに、
・いきなり収穫高と家族の数
・村内の役職と農兵の役職が列記されています。
◎一例に東大和市域の村の状況を書き出します。
・名主1、名主倅1,組頭倅3、百姓1、百姓倅3
・高は5石以上であることがわかります。
・現在に比べれば大家族ですが、中には4人暮らしでも選ばれています。
・芋窪村が属した拝島宿組合では、農兵に任命された者の持ち高は、だいたい1石から20石台に集中しています。
・なお、書上帳の最後です。農繁期を除いて稽古をする旨が記されています。
・具体的に稽古を見合わせる月が書かれ当時の農業暦がわかります。
この書上書の最後に「上新井村組合」の21村の村高などの合計が記されています。
・村高5217石4斗9升、家数1.151軒、人数6,397人 男3.395 女3.002人とし、農兵は40人とします。
・実際には総計男3395人の内から41名が選ばれました。
・名主3、組頭2、名主倅4、組頭倅6、百姓9、百姓倅17名でした。
調練場はこの書類には記されていませんが、野口村字萩山、上新井村字桃木久保に置くことが決められました。
経費は献金で賄われた
農兵に必要な経費は村の富裕な者の負担=御用金(献金)で賄われました。
・それによって装備が整えられ、訓練が行われました。
・上新井村組合では献金は文久3年(1863)11月、
・献金133名、1両から115両まで計521両とされます。
・各組合村からは次の表のように集められています。
表にはありませんが、芋久保村では25両が献金されて、村役人5人と百姓6人が負担しています。
各村負担の実態
各村の負担内容ですが、農兵制度が成立した文久3年(1863)の蔵敷村の例です。
名主10両、組頭5両、百姓(富裕)5両となっています。
注 献金の趣旨を「御国恩冥加のため農兵をお取りたてになった御入用」のこととします。
このような建前には、納める方に相当の言い分があったのではないかと推察します。
元治2年(1865)に、代官支配地の変更問題により、江川代官支配地の村々が変更反対の運動をします。
その時の言い分に次のように書かれています。
・私どもの組合二一か村においては合計七八〇両あまりを献納し、
・高島流の小銃その他付属の品を渡されました。
・田無村を砲術の練習場として整地し、
・小川新田へも同様に練習場を見立て、稽古をしました。
・二月中旬より御役所から教示方がお越しになり稽古に励んでいます。
・村や身分と不釣り合いで過分でもある農兵を進んで上納するものも多くいます。
抵抗もなく村に農兵がおかれた背景
村々から農兵が選ばれ、選ばれた農兵は名主や、名主・組頭など有力農民の倅であったことを紹介しました。しかも、費用は実質的には献金による村負担です。それがあまり抵抗もなく事業が進められています。何故、このようにスムーズに事業が進んだのか、その背景を辿ってみました。
農兵の設けられる経過については、農兵調練場2で紹介しましたが、農兵が設置された文久3年(1863)の前半です。
村の混乱は激しさを増し、村は自衛のために鉄砲拝借願いを出しています。『武蔵村山市史』から引用します。改行を多くしました。
「このようななか文久三年(一八六三)三月一六日、拝島村組合大惣代の福生村名主十兵衛と砂川村名主源五右衛門から、約一〇〇挺の高島流小銃の拝借願いがだされた。
近年、江戸からの疎開者や家財をねらった集団強盗が横行している。これらの強盗は刀や鉄砲で武装しており、これに対抗して村を自衛するためには竹槍や木太刀では不十分で鉄砲が必要であるとの内容である。さらに拝借する鉄砲の製造費用を村方から出金する用意もあるとなっている。
江川代官所領だけでなく、林部善太左衛門代官所領の国分寺村外四か村からも同様の理由で二季打ちの猪鹿鉄砲を四季打ち鉄砲とし、非常の場合の備えとしたいとの願書がだされている(『小金井市誌編纂資料』第十八編)。
これらの村むらは互いに連携しながら願書を提出しており、多摩の村むらの治安維持に対する危機意識が共通のものであったことがわかる。そしてこのような動きは、江川農兵の取り立てとも連動していたのである。」(『武蔵村山市史』上p1189)
江川農兵の取り立ては、文久3年(1863)10月6日でした。その7ヶ月前の3月16日には、すでに村が集団強盗対策などに、多くの鉄砲を借りたいとの申し出をしています。村の置かれた状況は鉄砲を持った者によって守られる状況になっています。
ピストルは農兵隊に貸し与えられました。脇差しとピストルが一緒になると、当時の様子がそのまま浮かんできます。
農兵の組織、指揮命令系統 隊伍仕法
農兵の組織や指揮命令系統はどのようになっていたのでしょうか。『里正日誌』に「隊伍仕法」が収録されています。
上図は「隊伍仕法」の一部です。全体は次のように集約されます。
①農兵二十五人をもって一小隊。そのうち五人は、懸り役人。
②鉄砲は高嶋流小筒(八匁・六匁)と附属の胴乱管入共に貸渡す。
③胴服立付等は銘々が用意し、異形はさける。
④小隊ごとに小旗を使用。
⑤五卒組は一組五人、内壱人は小頭役。
⑥差引役 壱組に一人。目付役の役割で兵卒の行跡、善悪ともに組頭役へ報告。
⑦什兵組頭 壱組に二人。什兵の善悪を判断し、命令する。
⑧小隊頭取 壱組二人。内一人は頭取並とする。兵卒の邪正を判断し、上部へ報告する。一隊の取締りの責任者である。
隊伍仕法の全文はこちらへ
『所沢市史』は農兵の指揮命令系統は
「代官所手付・手代、鉄砲教授方⇒農兵世話役⇒頭取・組頭⇒差引人(下士官に当たる)⇒一般農民
であったと思われる。」としています。(『里正日誌』8P308)
(2022.03.13.記 文責・安島)