藁餅(わらもち)で飢饉を切り抜けよ!!
藁餅(わらもち)で飢饉を切り抜けよ!!
天明三年、幕府のお達し
天明3年(1783)10月3日、幕府代官所の飯塚 伊兵衛から、東大和市域の村々にお触れが届きました。
「御勘定所」より「飢饉で食糧が不足し、米価が高いから、藁(わら)で餅を作って切り抜けろ」という通知が来たので伝える。というものです。
その内容は次の通りです。現代文に意訳します。
藁餅仕様(わらもちしよう)
生わらを半日も水につけて置き、あくを出し、よくよく砂を洗落し、
穂はとり去り、根元の方より細にきざみ、
それを、むして、ほして、煎(い)って、臼(うす)にてひき、細末にする。
その藁の粉、壱升へ米粉、弐合程入れ、水にてこね合、
餅のやうにして、蒸(む)すか、又はゆでて塩か味噌をつけて、食事によし、
また、きな粉を付てもよし、
米粉の代りに葛蕨(くず わらび)の粉、又は小麦の粉を混ぜてもよし
但し餅にして蒸したものを臼につ(舂)けば更に宜しい
米穀が高値なので、食料の足しにするため、こしらえて食べるように
作り方と藁餅の粉を試作する分、勘定所より渡された。粉は至って宜しいので
右作り方の通り、村々で早速こしらえて、食料が足りない時の食事とするように
この書類を早々村々へ順達せよ
飯 伊兵
卯十月三日 役所 (『里正日誌』2p349~350)
見本を渡されたとは云え、穂をとったあとの藁を食料にせよと云うのですから、たまったものではありません。
天明年間(1781~1788)は気候変動の激しい年が続きました。『里正日誌』は次のように記します。(意訳)
天明二年(1782)の冬より気候が違って、十二月迄暖く、菜種の花咲が揃い、また筍(たけのこ)を生し、時々、雷鳴があった。
あくれば三年(1783)の春は、正月より四月頃まで風雨で、雨しげく、寒気が甚しかった。土用中も冷気のため田畑とも不作で、田植の日にも人々は綿入を着て、火にあたる程だった。
だから、穀物が高直になり、七月の初めに、雨に交って砂を降らし或は風につれて白き毛のようなものが飛んで来た。又大地の震(ふる)ふ音が昼夜に及んだ。これは浅間山の噴火によるものだ。・・・(『里正日誌』2p366)
このような状況から、不足する食べ物について代官所に「拝借願」を出そうとの動きが起こったようです。
その最中です。10月3日この通知が来ました。残念ですが、その後の様子は記されていません。村の主立った人に見本の藁の粉が配られ、それぞれの家々で、つくられたと推察します。
当然、日常の食糧が不足し、ついに、12月には、武蔵村山市の村と共に、芋久保村、宅部村が代官所に夫食の拝借願いを出しています。飢え人が出そうになったようです。
翌、天明4年(1784)には、大騒動が起こりました。2月27日、箱根ヶ崎の狭山池に2~3万人の農民が集まり、一揆となって、東大和市域では高木村まで押し寄せました。「天明の打ち壊し」と呼ばれています。ページを改めます。
(2019.06.28.記 文責・安島喜一)
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