野火止用水が引かれるぞ!!
野火止(のびどめ)用水が引かれるぞ!!
それ!新しい畑の開発だ!!
東大和の村々に慌ただしい空気が広がります。
玉川上水・野火止用水が出来る
「原の南っかたで、江戸へと上水がつくられるとよ」
「それと、そっから別の用水が分かれるそうだぞ」
噂が広がってきました。
「いってえ、どうなるんだ?」
「おれーらも、使わせてもらえんベエか?」
村人達は落ち着けません。
承応元年(1652)、玉川上水の開削が決められました。
玉川上水の工事が始まります。
承応2年(1653)4月4日、工事開始
承応2年(1653)11月15日、四谷大木戸まで堀り上げ、翌3年(1654)完成。(玉川上水記による)
村人達が噂をしている間もなく、もの凄い勢いで工事は進みました。
夜になると、狭山丘陵の上から、
「ありゃ、狐の嫁入りじゃねえか・・・!」
「違えねえ、たまげたもんだ」
遠く、提灯が並び、自然勾配で水が流れるように測量した姿が見えたことでしょう。
「工夫に雇ってくれ」
と頼み込んだ村人もいたかも知れません。
今度は野火留(止)用水
「あらよー、今度は野火留(止)だとよ」
「川越の親方が云い出しっぺだとよ」
「おら方と同じ、原っぱだんべ?」
「おら方へは通らねえのかや・・・?」
村人の度肝を抜いたのが野火留(止)用水です。
玉川上水工事には難航した部分もありました。その解決の采配を振ったのが老中で川越藩主の松平伊豆守信綱です。信綱は完成のご褒美に、領地の野火留方面へ玉川上水から3分の1の分水を頂戴しました。
信綱は、生活水と農業用の用水として、野火留(現在は野火止)まで、あっという間に水路を掘らせました。現在の玉川上水駅の近くを分水点としました。
承応4年(1655)2月10日、工事開始
承応4年(1655)3月20日、完成
なんと一ヶ月ちょっとです。
しかも、知恵伊豆と云われるだけに、チャッカリしていて、野火留地域には
・工事が始まる前の年までに、原野を畑へと開発する人々がすでに移転して来ていました。
◎幕府の老中として、武蔵野の新田開発を計画していたのかも知れません。
用水は貴重でした。東大和市域内では一滴の水も使えませんでしたが、東大和市内も含め、用水沿線では「伊豆殿堀」と呼びます。
早くも岸村の小川さんが動いた(小川村)
この動きに目をつけたのが岸村(現武蔵村山市)の小川九郎兵衛さんです。
「岸村の人がな、玉川上水と野火止用水の分かれ目の辺りから、馬継ぎ場をつくるとよ」
「石灰の中継ぎ場って云うけんど・・・?」
「かっこつけてんけんど、新しい村をつくるだんべ」
「もう許可が下りたらしいぞ」
「小川村って名だとよ」
明暦2年(1656)岸村小川九郎兵衛が幕府代官今井八郎左衛門に願い出をします。
・田無村から箱根ヶ崎の間は、石灰の運搬に多くの人馬が通行する
・しかし、人家が無く、行き来する人馬が水も飲めず、難儀している
・この往還の人馬を救うため
・自分の資金で
・馬継ぎ場をつくりたい
・そのため、新田を開くことを許可ください
この願いはすぐ許可されたようです。
その場所は、「老中松平信綱の意によって、西は江戸御水道と野火留水道との堀分けより東は田無村の方へ開発と仰せ付け」
られたとします。(除地之訳書 じょちのわけがき)
最初は生活水を得るため、井戸を掘ったようですが、結局は玉川上水からの分水を得ています。
俺れーらも急がなくっちゃ
「よーし、俺れーらもあの原を耕すべえ」
「並じゃねーぞ、赤土だし・・・」
「それに、痩せっ地だし、ろくなものがとれねえぞ」
状況が一変しました。狭山丘陵の懐から、村人は一斉に南へと開墾を始めます。
次に続けます。
なお、現在、かっての分水口の周辺は次のように変わっています。仕組みは別に記します。
(2020.11.20.記 文責・安島)