さあ、畑をつくるぞ!!

「すげーなー」
「多摩川の水だんべ・・・」

クリックで大

 野火止用水に水が流れました。承応4年(1655)3月20日です。
 茅(かや)や茨(いばら)が背中より高い原野の中
 たった一筋の水路を熱く追います。

「そうだ、ここまで、畑にすんべえや」
「たしかに。そうすりゃ孫子(まごこ)も食えるぞ」
「ちげえねえ、今のままじゃー、畑は増やせねえしな」

谷ッの集落では畑を増やすことは限られていました。昭和の芋窪西谷ッ。
クリックで大

「おらも覚悟を決めた、やんぞー!」

 大急ぎで「新田開発」(しんでんかいはつ)の許可をとったようです。
 芋窪の旧家に検地帳があります。                                          
 「万治元年(1658)八月
   立野(たての)
  一、壱反三畝六歩
             太郎左衛門他二十四名」
 と記しています。
 芋窪村の村人達が、万治元年(1658)8月に、立野地域を開発して、1人当たり1反3畝6歩(約四百坪・1300㎡)ずつ、均等に配分したことがわかります。場所は、現在の新青梅街道の北側になります。野火止用水が引かれて3年後です。

武蔵野の原野を新しく畑に変えた年代
クリックで大

 同じように、狭山丘陵の懐に家々を構える村人達が、せっせと原野を耕して、上の図のように空堀川を超えて野火止用水際まで畑に変えました。

 高木村では寛文9年(1669)に、街道向 中原(なかはら) 
 延宝2年(1674)に、堀端 堀際 後ヶ谷戸境(うしろがやとさかい)

 後ヶ谷村でも寛文9年(1669)に、砂の台、江戸街道向
 延宝2年(1674)に堀際、水道際

と記録されています。
 野火止用水が開鑿されて20年後には堀際まで開墾が進んだことがわかります。江戸日本橋に新田開発を奨励する高札が掲げられたのは、享保7年(1722)です。その時には東大和市域の村々は、もう、すっかり開発が終わっていました。

赤土の中の開墾

 「きょうは、神棚にゴボウの種がまけんぞ」
 「弁当も真っ赤さ」

 武蔵野の原野は30㌢ほど黒土が覆い、すぐ下は赤土でした。その掘り起こしたところに風が吹きます。
 昭和の初めでも、赤土が舞い上がり、目を開けて居られなかったと伝えられます。
 開墾した畑は「吹っ飛び田地」(ふっとびでんち)と呼ばれたと『東大和のよもやまばなし』は語ります。

2006年3月19日、東大和市に舞った赤っ風 クリックで大

「もうちっとばかり、やっちゃうべー」
「つれーけんど、しょうがんめー」

 村人達は黙々と開墾の鍬を振りました。
 出来上がった「畑」はあまり作物がとれず、「下々畑」に位置づけられました。
 だから、たくさんの肥料が必要でした。

 「江戸へ出て、干鰯(ほしか)を買ってこなくちゃしょうがねえな・・・」
 次に続けます。

 (2020.12.02.記 文責・安島)

 野火止用水が引かれるぞ!!

 大まかな歴史の流れ 5 近世 2 玉川上水・野火止用水の開削、細長い村 

 赤っ風(『東大和のよもやまばなし』)

 赤っ風(東大和のモニュメント)