農兵調練場(東大和市)1-1
農兵調練場1-1
農兵制度が生まれた背景
市旧跡「農兵調練場」で、東大和市の農兵の概略、調練場の位置関係を紹介しました。
ここでは、その農兵制度ができるまでの背景と経緯について記します。
範囲が広いので、4つに分けて整理をしてみました。
市民が作る「東大和デジタルアーカイブ」との関連から古文書(現代語訳)を入れました。
異国船渡来と混乱
少し遡ります。
・天保8年(1837)6月28日、アメリカ船モリソン号が浦和に現れて
・幕府に、日本の漂流民7人の引き取りと貿易、交流を求めました。
・浦賀奉行が異国船打払令で対応、モリソン号は引き返しました。
・7月11日、武装を解除したモリソン号は薩摩に入港して、
・藩主に漂流民送還と交易開始を求めます。
・しかし、薩摩藩も威嚇砲撃をして、モリソン号は去りました。
この対応には、国内からも批判が出ます。
◎これを機会に、幕府は対外対策に追われます。
・頭角を現したのが伊豆韮山の江川太郎左衛門(英龍)でした。
・狭山丘陵一帯を治める代官でもあります。
江川家の農兵設置提案
・江戸市中でも不安が増し、
・農村では飢饉も重なり無頼の徒が往来して、地域不安が増幅されます。
・天保5年(1834)11月、狭山丘陵の村々に打ち毀しの張り札が出されます。
・天保7年(1836)、疱瘡が流行、死者多く、一揆の流言飛語が飛び交います。
・天保10年(1839)5月、江川太郎左衛門(英龍 ひでたつ)が伊豆の国に農兵を設ける提案。
(「伊豆国御備場之儀に付申上候書付」)
・天保13年(1842)7月、幕府は異国船打払令を改め、天保の薪水給与令を布告。
・同年8月、川越、忍の両藩に相模、房総沿岸の警備を命じました。
これを機に、東大和地域にも対外情報が伝わります。
・嘉永2年(1849)5月、英龍は農兵の設置を幕府に提案します。
・幕府は慎重で、結論は出ませんでした。
ペリー来航
・嘉永6年(1853)6月3日、ペリーが黒船を引き連れて来航。
・使節として、修好と通商を求め、モリソン号の時とは異なり強硬です。
黒船に護衛させて、測量船を江戸湾深く侵入させます。
幕府は対応に追われ、国書受理を決定。
・6月9日、ペリーは久里浜に上陸。幕府、アメリカ大統領の親書を受け取り
ペリーは、再来を約して江戸湾を去りました。
嘉永6年(1853)
・7月、ロシアからプチャーチンが、通商・国境確定を求めて長崎に来港。
・海防、江戸湾防御が緊急の課題となり、台場の築造を進めます。
狭山丘陵周辺の動きです。
・7月9日、大筒車台用材として青梅村の欅類を伐りだし、江戸湾に運搬。
・9月12日、中藤村にある幕府御用林から、
丸太2247本を伐りだし、東大和市域の村々の村人達も従事しました。
・10月13日、村々は江川太郎左衛門から
「品川台場御普請につき献金」を求められます。
村々は3年かかって献金することを約束しました。
・12月、幕府が江川太郎左衛門に反射炉の築造を命じます。
嘉永7年(1854)
・1月9日、ペリー再来航、通商・開港の回答を要求。
・1月18日、村には「異国船渡来につき、取締方の義御回状」が届きます。
「このところ相模の国浦賀辺りに異国船が来ているので、・・・・組合村々は、よく申し合わせ(相談し)て取り締まりをせよ。もし疑わしき者あるいは長脇差しを持った者を見かけたら、直ちに差押さえ(捕らえ)、もよりの関東取締出役の廻村先へ届け出よ。
人気不穏という虚につけ込んで、悪徒たちが村々へ立ち寄る可能性があるので、(村人)たちは理由のない外出をせずに、火の用心に心を配り、お互いに相談して、村ごとに取り締まりをせよ。」(『里正日誌』7p22)
嘉永7年(1854)1月23日、蔵敷村の村人達は全戸連名で
「承知をした、竹槍、竹螺(たけぼら 竹でつくったホラ貝のような)
等用意し、盤木の音を聞いたら竹槍をもって早速駆けつけます。・・・」
との「心得の事」を提出しています。(『里正日誌』7p25)
・この時(嘉永7・1854年)、後が谷村(うしろがやむら 狭山村の前身)では、
幕府から御用船の用材に神明社の欅を伐るように命ぜられました。
ご神木としての大事なケヤキです。
村人は反対。重なる江川代官の命により、やむなく、伐り出しました。
その結果、関係者の家が火事になったり、盗賊に入られたり、
病気になったりいろいろの話題が残ります。
江川太郎左衛門支配地への農兵設置
◎江川英龍は、「海防策」と「農兵」の建議を続けます。
・農民に鉄砲を持たせて訓練し、国防と地域の治安維持に資するとします。
・老中・阿部正弘は英龍を幕府の要職にすべく江戸出府を求めました。
・英龍は、病の中を江戸に出て海防に尽くし、
・安政2年(1855)1月16日、亡くなりました。
◎跡を継いだ英敏(ひでとし)がその志を引き継ぎ運動を続けます。
・英龍の意を受け国防と代官の任務をこなすなかで、
・安政3年(1856)6月1日、芝新銭座(しばしんせんざ)に大小砲修練場を開設
・安政5年(1858)、韮山反射炉製の鉄砲試射にこぎ着けます。
・文久2年(1862)、英敏は亡くなります。
◎跡を英武(ひでたけ)が継ぎます。
・農民に武装させることは、武士、農民、商工者等の身分制度を揺るがすことであり、
賛否両論でした。
・しかし、対外、対内状況はさらに緊迫しました。
◎文久3年(1863)10月6日、幕府はついに、江川英武の支配する幕府領
(武蔵、相模、豆州(伊豆)駿河)に限って農兵を置くことを決定しました。
◎以下、武蔵国の農兵についてはページを改めます。
(2022.02.25.記 文責・安島)