農兵調練場2  江川農兵の成立 

農兵調練場2
 江川農兵の成立 
 
 江戸末期、対外関係は一挙に緊張を増し
 同時に、国内の混乱が続きます。その渦中に農兵制度が浮上してきました。
 三つに分けて整理しました。

見えにくいのをお許し下さい。
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 江川家・農兵・多摩の動きの欄の下段、1865・蔵敷村組合を形成とあります。当時は公式文書には蔵敷分とすることがありました。奈良橋村蔵敷分の意味です。地元では、村を主張し、蔵敷村とし、農兵の旗は「蔵敷組合」としています。以上から、この欄の記載に限って「上新井村組合」との関係を考慮し「蔵敷村組合」としました。

条約締結・開港

嘉永7年・安政元年(1854)
・1月9日、ペリーが再来航、通商・開港の回答を要求、
 1月16日、羽田沖まで乗り込んで威嚇。
・2月10日、開港場を下田に設けることで決着。
・3月3日、日米和親条約を締結。

日米和親条約締結の地 横浜市
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安政元年(1854)
・4月、台場1~3番まで完成
安政2年(1855)
・2月7日、日露和親条約(通好条約)を締結(米に次ぎ、2番目)。
・3月、フランス艦隊・下田に、イギリス艦隊・箱館(函館)に来航。
・3月、後ヶ谷村の神明社大欅を御用船に用いるため、伐り出しを命ぜられる。

神明社の跡地 クリックで大

・5月4日、幕府、江川英敏に内海台場整備を命ずる。
・7月29日、幕府、長崎に海軍伝習所を設立。
◎10月2日、江戸直下大地震、(安政大地震)
◎玉川上水の羽村の堰が破損。
◎小平新田にあった幕府御用煙硝火薬搗立所が爆発。
安政3年(1856)
・6月1日、芝新銭座(しばしんせんざ)大小砲修練場開設
・7月21日、アメリカ総領事ハリスが下田に来航、玉泉寺に総領事館。
 通商の自由、通貨交換比率取り決めを要求。
◎狭山丘陵周辺に疫痢が蔓延、死者多く、痢病の邪気送り。
安政4年(1857)
・4月11日、幕府、軍艦教授所(後の軍艦操練所)開設。
・4月21日、老中一行、安政2年の大地震によって破壊、修理された羽村堰を巡見、
 青梅橋通過。◎東大和市域の村々応対。

羽村の堰 クリックで大

◎この対外、対内共に緊張と騒動の中で、
・老中一行が揃って羽村の堰の修復完成を検分するとは、
・どのような意味があったのでしょうか?
◎改めて緊迫する時代、各面への対応策を確認し合ったのでは?
安政4年(1857)
・5月26日、幕府はハリスと日米条約を下田で締結。

下田港 黒船投錨地
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・8月4日、ロシア・プチャーチン長崎に来航
・10月21日、ハリスが江戸城登城、将軍家定と謁見、大統領親書提出。
◎11月1日、幕府は米大統領親書などを諸大名に示し、意見を求める⇒衆議。
 これを機会に、幕政は大きな転機を迎える。

国内対立

安政5年(1858)
◎2月9日、幕府が外国との条約締結の勅許を朝廷に求める。
◎孝明天皇が不許可。以後、国内政治に不安定さが増す。
◎6月19日、幕府、勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結。
・7月、日蘭、日ロ修好通商条約締結。
◎これに対して、8月8日、朝廷が「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)を発した。
 (条約締結に対する幕府への批判、水戸藩の攘夷推進)
◎幕藩体制は大揺れに揺れます。◎全国にコレラ流行
 ・狭山丘陵周辺でも、日々死者が出た。
◎以後、「安政の大獄」を初めとして様々な国内対立が生ずる。
文久2年(1862)
・4月16日、島津久光、藩兵1000人余を連れて入京、建白書提出。
(慶喜を将軍職後見に、外交政策は公論によって決するなど)
・5月22日、島津久光、勅使と共に江戸に向かう。
・6月10日、勅使(大原重徳)が江戸城で将軍家茂(いえもち)に三ヵ条の勅諚を伝える。
 (将軍上洛、五大老設置、徳川慶喜・松平慶永の幕政登用)
・7月1日、家茂、老中が反対する中で勅旨を奉承。
・8月21日、久光の帰路、列を横切った英人を斬る。生麦事件⇒薩英戦争

生麦事件の現場(横浜市鶴見区生麦4丁目)旧東海道 右側2本の赤い注意標識の上に「生麦事件発生現場」の表示がある クリックで大

生麦事件参考館設置の「生麦事件発生現場」の表示
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・10月28日、第2回勅使(三条実美)江戸城到着、攘夷を督促。
・12月12日、高杉晋作、久坂玄瑞英国公使館焼き打ち。
・12月○日、江川英秀武(9才)韮山代官に就く
文久3年(1863)
・2月13日、将軍家茂上洛、激化する尊皇攘夷への対処。
・2月19日、イギリス軍艦、横浜に入港、幕府と薩摩藩に生麦事件の謝罪と賠償を要求。
・3月5日、戦争の可能性が流布、江戸は厳戒態勢をとる。
 幕府10万ポンド支払い、薩摩藩は拒否。
・5月10日、 長州藩が攘夷を決行、下関(関門海峡)でアメリカ汽船を砲撃。
・5月23日、長州藩が仏商船、5月26日、蘭軍艦を砲撃。
・6月2日、仏艦2隻、長州藩砲台を攻撃、占領。
・7月2日、 生麦事件の解決を求めて英国艦隊が鹿児島湾で砲撃=薩英戦争。
 薩摩藩砲台打撃、英国軍戦死者60余人
・7月4日、英国艦隊鹿児島湾を去る。

当時の薩摩藩砲台跡の一つ祇園之洲砲台跡
 姿は変わっていますが湾内での砲撃の激しさが改めて浮かび上がる。
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・幕府、代官に在陣を指示、治安の維持と年貢確保を命ずる。
 攘夷、天誅、公武合体・・・と様々な動きが交差する。
・10月6日、武・相・豆・駿の韮山代官支配地に限って農兵取り立て許可となった。

対外通商、物価高

もう一方の通商と物価の問題です。
・安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約を締結。
・7月、オランダ、ロシア、イギリス、
・9月、フランスと同様条約を締結。
・安政6年(1859)5月、幕府がアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、オランダに貿易を許可
・6月、神奈川、長崎、函館を開港、自由貿易開始。

物価上昇

・外国商人と日本の商人との取引、横浜がその最大の拠点。
・日本からは主に生糸を輸出。
・しかし、輸出超過が続き、急激な輸出超過によって、
・主要輸出品の生糸をはじめとする国内物資が不足、物価高騰。
・金と銀の交換比率が、日本は1:5、列強は1:15であったことから、
・金が日本から大量に流出、経済混乱の要因を更に強めた。
・攘夷運動が激化し治安が悪化する中で、
・幕府は万延元年(1860)、五品江戸廻送令を出し、
・生糸・水油・呉服・雑穀・蝋の5品は江戸問屋経由での輸出を命じた。
・江戸問屋中心の流通機構が破綻、急激な物価高をもたらせた事による。

江戸市中混乱

 以上の経過の中で江戸市中は混乱します。
 文久3年(1863)
・2月19日、イギリス軍艦、幕府・薩摩藩に生麦事件の謝罪と賠償を求めて横浜に入港。
・3月5日、戦争の可能性が流れ、江戸の厳戒態勢につれ、不穏な空気が多摩にも伝わります。
・3月16日、拝島村組合、高島流小銃の拝借願いを提出。『武蔵村山市史』(上p1189)
『指田日記』は
・3月16日、江戸追々混乱、御大名方の奥向きを知行所に送り、
 御旗本の老少女子を夫々に知行の寺院などへ遣わす手配あり、
 町方も田舎の縁を求め、荷物を運び老人を送り遣わす
・3月25日、雨。戸端人別、村々見張りを置く、人数に応じ竹鎗を持え置き、
 若し狼籍者手にあまる事ある時は、
 突き止め切り殺し候とも、苦しからざる由を申し渡さる
 と異常な状況を記録しています。
・4月6日、江戸からの避難場所の確保でしょう、
 広い部屋を持つ屋敷の調査が行われました。
 蔵敷村の例です。代官所に「手広住居書上帳」を提出しています。

江戸在住武士の家族避難の場所の確保とされます。『里正日誌』8p161
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江川農兵の設置

農兵の設置

 このような背景から、かねてから江川家が提案していた、農民が鉄砲を持って治安に当たる農兵の建議が認められました。
 文久3年(1863)10月6日、幕府海防係から江川支配の武蔵・相模・伊豆・駿河国の幕府領に限って、農兵取り立ての決定通知が出されました。東大和市に伝わる『里正日誌』(8p303)によれば、武蔵国では次の16組合が構成されました。
 田無村組合、日野宿、八王子宿、駒木野、青梅村、五日市村、拝島村、氷川村、檜原村、上新井村、木曽村、藤沢宿、藤沢宿之内村瀬谷野新田、寺山村、日蓮村、中野村組合。

 東大和市域の村は上新井村組合に属しました。
 上新井村組合、蔵敷組合、経費負担等については次に続けます。

 (2022.02.28.記 文責・安島)

 農兵調練場1(まとめ)

 農兵調練場1-1

 農兵調練場3 上新井組合

 蔵敷調練場跡(市旧跡)

 東大和市の歴史 近世