農兵調練場4 農兵蔵敷組合の誕生
農兵調練場4
農兵蔵敷組合の誕生
これまで、江川農兵・武蔵国農兵・上新井村組合の結成の経過を紹介してきました。
約2年経過して、狭山丘陵周辺の農兵が変化します。
・村には「所沢(寄場)組合」(文政12・1829年)がありました。
関東取締出役を置き、村に害を及ぼす者や荒れた村を見回る仕組みです。
組合の中に、多摩郡地域の活動を密にするため、「蔵敷組合」がつくられていました。
・文久3・1863年、農兵を置く「上新井村」が結成されました。
・元治2・1865年、上新井村組合から「蔵敷組合」が生まれました。
◎幕府直轄領の支配変えにより、江川領を分離するためです。
・ここに「蔵敷組合」「蔵敷組合」という同じ名前の団体が並立しました。
・一つは行政上の村で、農兵の経費を献金という形でまかない
・一つは村人が銃を持って訓練して様々な混乱に対応する
という役割を果たします。
ややっこしいですが、暫くお付き合い下さい。
支配替えの反対運動
江戸幕府は、元治2・1865年3月(4月7日から慶応元年)、武蔵・相模・下総の三国にある直轄領の代官に対して支配替を実施しました。
支配替は、江川太郎左衛門・木村董平(とうへい)・佐々井半十郎・今川要作・福田所左衛門(しょざえもん)の五人の代官の間で行われました。
この中で、江川太郎左衛門が支配していた武蔵国多摩郡については、26か村を木村董平に移管するとのことでした。
・これに対し、対象の村々が総出で反対運動を展開しました。
・元治2年(1865)3月28日、田無村組合では村役人が駕籠訴し、
・元治2年4月6日、狭山丘陵南麓の村々では勘定奉行・勘定吟味役・勘定組頭に門訴しました。
・訴えの中心に農兵の問題が挙げられています。
・農兵のこともさりながら、当時の村の言い分が良く現れているので、長文ですが引用します。
恐れ多いことですが訴え申し上げます。
江川太郎左衛門代官所武州多摩郡左の村々役人ども一同が申
し上げます。私どもの村々は昔より御料所(江戸幕府直轄領)
であり、十六年前のいぬ年(嘉永三年、一八五〇年)より今年
まで支配を受け、第一に取締向きを始めとして衣食住その他質
素節倹のことを厳重に御趣意を言いつけられ、おかげさまをも
って村々の気風が和し、訴訟ごともなくなってきました。右の
ことに準じ村入用はたいへん減少し、しだいに村の状態もよく
なり、老若男女に至るまでありがたいことと思っています。
と書き始めて(長文なので箇条にします)
・昨年の冬に支配の村々へ農兵御取立の沙汰があり、
・一同はありがたいことだと承知し、
・私どもの組合二一か村においては合計七八〇両あまりを献納し、
・高島流の小銃その他付属の品を渡されました。
・田無村を砲術の練習場として整地し、
・小川新田へも同様に練習場を見立て、稽古をしました。
・二月中旬より御役所から教示方がお越しになり稽古に励んでいます。
・村や身分と不釣り合いで過分でもある農兵を進んで上納するものも多くいます。
・それなのに御支配所の村々が引き別れてはすべてのものが差し支え、
・御趣意が弛むだけでなく折角の丹精が空しくなることが明らかです。
・農兵を学ばせたものは、いずれも血気盛んの若者どもで
・一生懸命稽古に励み、一と小隊または弐組と定めて人数を決めているのに
・引き離れては成就しがたい、と一同が悲嘆にくれております。
・よって村々にいる大小の百姓はもちろん村役人においても、
・これまでの通り同支配所に据え置かれ思慮深い御趣意を貫くよう
・恐れ多くを顧みず、一同を上げて訴え申し上げます。
と結びます。
◎この訴え状を元治2年3月28日、田無村代表が駕籠訴しました。
◎同様に元治2年4月6日、狭山丘陵南麓の
蔵敷村、奈良橋、高木、宅部、後ヶ谷、清水新田、廻り田、同村新田、
粂川、南秋津、野塩、日比田、野口村が
野口村名主・勘左衛門、蔵敷村名主・杢左衛門が総代となって
同様のことを訴え出ました。
◎この結果、江川太郎左衛門支配地は変更しないことになりました。
このため、農兵組織の上新井村組合では江川領域ではない区域が生じ、編成替えが必要となりました。
現在の埼玉県と東京都の境界で区分し、蔵敷組合が分離しました。
下図●が上新井組合の村の位置図で、その内二重の●が蔵敷組合の村々の位置です。
上新井村組合から蔵敷組合
上新井村組合から分離した蔵敷組合は次の11ヵ村で再編成されました。
野塩、日比田、久米川、南秋津、野口、廻田、宅部、奈良橋、高木、後ヶ谷、蔵敷村。
現在の清瀬市の一部、東村山市、東大和市の一部です。
再編成された蔵敷組合は新たな組織として出発しました。
さて、いつ蔵敷組合は成立したのでしょうか?
江川領の他の代官への支配変えを拒んで
・元治2・1865年3月28日、田無村代表が駕籠訴
・元治2・1865年4月6日、狭山丘陵南麓の蔵敷他12ヵ村が張り紙の門訴
をしたこともあって
・慶応元・1865年4月29日、江川氏支配所が従前通りとなります。
(4月7日から元治を慶応と改元)
◎以上から、蔵敷組合の成立は慶応元・1865年4月29日かそれ以降の近い日が考えられます。
ところが、私どもの頼りにする『里正日誌』には、その明確な日付を証する記述がありません。
この点について、是非ご教授の程お願い致します。
農兵の蔵敷組合が出来る前、「蔵敷村(分)」が銃を受け取った
蔵敷組合を考える上で、一つの資料があります。
農兵は銃の扱いの訓練を受けました。そのための銃を預かった時のことです。
元治2・1865年3月1日に「蔵敷村(分)」が江川太郎左衛門事務所から銃を預かりました。
その村が
・従来からの村人と名主などが活躍する村「蔵敷村(分)」であるか
・所沢組合村の傘下にある「蔵敷組合」であるか
の問題です。次の文章をご覧下さい。
意訳します。
・田無村の江川家御用先常駐宿に逗留する
・江川家手代三浦氏から蔵敷村にあてられた「書付」
・農兵に貸し渡す筒(銃)を引き渡すので
・人足をつれ、直ぐ
・田無村の我が宿へ
・来なさい。
とするもので、次の付記が付けられています。
・この通知が小川村を経由して3月1日、午後4時に来たので
・人足を2人連れて夕刻に出発した
・田無村名主下田家に行ったところ
・深夜になったので、田丸屋に泊まり
・翌2日、早朝に訪ね
・鉄砲10挺、その他付属品を貸し渡されたので
・請書を差し出した。
請 書(うけしょ)
ケヘル銃が10挺と付属品が並べられています。一つ一つ見ると、当時の銃の姿がわかります。ここでは詳細を避けます。
問題は
・農兵どもへ貸し渡す銃、付属品共
・書面の通り渡され
・封印致し置き、取り締まりを厳しくし
・追って、鉄砲の教授方が廻村してくるまで
・大切にしまっておくように言われたので
・承知した。
・元治2年(1865)3月1日
となっています。
「蔵敷分」が受け取り、誓約した人物が蔵敷村の組頭と名主です。
農兵組織ではありません。
◎文面からは、受け取ったのは従来から続いてきた行政上の「蔵敷村(分)」です。
・しかし、銃を使うのは農兵組織としての上新井村で
・そこに、多摩地域で構成する「蔵敷組合」があり
・その代表が「蔵敷村(分)」の名主でした。
◎行政上の村と農兵組織が並列します。
・文政改革の「所沢組合村」は範囲が広く、48ヵ村で構成されていたので
・多摩地域13ヵ村で小組合として
東大和市域
・蔵敷、奈良橋、高木、宅部、後ヶ谷、清水村
東村山市・清瀬市地域
・野口村、廻り田村、久米川、大岱(おんた)、中里、野塩、南秋津村
が一緒になって、「蔵敷組合」をつくりました。代表者には蔵敷村の内野杢左衛門が就きました。
この「蔵敷組合」は明治3年(1870)まで続きます。
清水新田、廻り田新田を除き、他は農兵の「蔵敷組合」と同じ村の構成です。
◎さて、元治2年(1865)3月1日に、銃を受け取ったのはどちらの村かの問題です。
◎文章では行政上の村であることは確かですが、その裏に所沢組合の「蔵敷村」がることに要注意です。
◎当時は、ほぼ同じ村々で構成する組合村が並列していて
いわば、行政的な組織である蔵敷村(分)が農兵の組織の役割も果たしていたことがわかります。
(2022.03.14.一部修正)
調練場
組織を新しく組んだため、調練場・訓練場を組合村の村々のどこかに置くことになりました。元治2年(1865)7月2日、次の通り、「蔵敷分組合農兵稽古場麁絵図」を提出しました。(『里正日誌』9p175)(麁絵図=あらえず=概要(略)図)
訓練所は、慶応元年(1865)7月、田無村から蔵敷村に射撃場が作られて移されました。現在、三本杉と呼ばれる山王塚の南側の畑地3反を使用しました。使用料2両は組合村で負担しました。北西の一角に栗の木でつくった弾除けを埋め込んだ土手が築かれました。
これが、東大和市が旧跡に指定した調練場になります。調練場・訓練場については別に書きます。
ここで、再度、二つの蔵敷村の並立について整理しておきます。
村々の農兵、調練場、経費等についてはページを改めます。
(2022.03.10.記 文責・安島)