蔵敷調練場6の1 江川農兵と調練1
蔵敷調練場6の1 江川農兵と調練1
・文久3年(1863)10月、江川領に限って農兵の取り立てがありました。
・その後、どのような調練が行われたのか追ってみます。
・年号が元治2年(1865)4月6日より慶応元年とかわります。
江川農兵の成立と多摩(上新井村組合)の調練場
文久3年(1863)10月6日、江川代官支配領に限って農兵を設けることが認められました。
相模、豆州、駿河、武蔵国の4国で、武蔵国では16組合が結成されました。
その中の一つが上新井村組合です。入間郡10、多摩郡11村で構成されました。多摩郡は次の村々です。
野塩、日比田、久米川、南秋津、野口、廻田、蔵敷、奈良橋、高木、宅部、後ヶ谷村
東大和市域の芋久保(窪)村は隣接する拝島村組合に所属、清水村は徳川家臣領のため除かれました。
◎多摩郡では調練場が野口村萩山に設けられることになりました。
◎早速、地元で訓練がはじまるものと資料を追いましたが、
出てくるのは元治元年(1864)の幹部訓練が最初で
◎元治2年(1865)3月に下稽古が名主や神の庭ではじまりました。
◎野口村萩山の調練場は設けられることなく
慶応元年(1865)7月に蔵敷調練場が設置されました。
幹部訓練
・『里正日誌』は文久3年(1863)11月の記事から急に元治元年(1864)9月21日に飛びます。
・そして、その記事は幹部の養成について記します。
・元治元年(1864)9月21日、農兵の件につき
・拝島村の中屋へ集まった
・田無村、蔵敷村、日野宿、八王子宿、青梅村、五日市村、砂川村、福生村、拝島村の9人
・役所よりの仰せにより
・来る26日に一組合につき一人
・新銭座調練場へ稽古に差し出すことを評決した
という内容です。
実際に
・新銭座調練場へはそれぞれの組合村から11人が出動し、
・名主や組頭の倅が稽古を受けています。
・いわゆる幹部訓練と思われます。
・新銭座調練場では鉄砲方教授12名の名があがり、
・鉄砲の訓練を受けたことが解ります。
・従って、本格的な訓練は、この後に、組合村内で、或いは相互に実施されたものと思われます。
◎そして、地元での下稽古が翌年に行われます。
地元での下稽古
・元治元年(1864)、芝新銭座で、選ばれた何人かが砲術訓練を受けました。
・そして、その訓練生と農兵同士が下稽古として教え合いました。
・元治2年(1865)3月、下稽古がはじまりました。
・なんと、名主や寺院の庭先で行われています。
・3月11日~15日、蔵敷村名主・杢左衛門の屋敷内の庭
・3月16日~20日、高木村 庄兵衛宅の庭
・3月21日~25日、野口村 正福寺の庭
・ 以後4月は、5日・10日=蔵敷、15日・20日=高木、25日・30日=野口村
・5月5日をもって、下稽古は終り、としました。
◎下稽古したときの訓練の定め全文はここをご覧下さい。
◎指導者は前年9月に新銭座に行って訓練を受けた農兵達でした。
◎そして、ややこしいのですが、この年に「村」が銃の借り上げをしています。
農兵銃の借り上げ
元治2年(1865)3月1日、「蔵敷村(分)」が代官所から農兵銃を借り上げます。
内容は前の農兵調練場4の記事と重なりますので、省略しますが
・ケヘル銃10挺、その他でした。
◎丁度、上記の下稽古の時期に当てはまります。
農兵銃についての変化を紹介しておきます。慶応2年(1866)になると舶来形ケウエール銃になります。
◎これらの銃とどのように関係するのか明らかではありませんが、下記の銃が東大和市内の農兵関係者宅に伝わります。
弾丸は「ゲーベル銃」用と「ミニエー銃」用が保存されています。
いずれも「2019年7月20日~9月30日 東大和の歴史展~激動の幕末・明治期をさぐる」展示(撮影の許可を得ています)
農兵銃
東大和市内に伝わる銃については、元治2年(1865)「ケヘル」と慶応2年(1866)「舶来型ケウエール」の2種を紹介しました。
明治3年(1870)4月にこれらの銃は引き上げられ、代わって西洋ミニヘール(ミニエー)銃が貸し付けられています。(『里正日誌』8p387)
これらについて「東大和の歴史展~激動の幕末・明治期をさぐる」展で次のように解説されます。(上記上画像右上)
「スプリングフィー一ルド銃
(M1855)の日本製銃
1849年にフランス陸軍大尉クロード・ミニエーは、それまでの主流であっ
たゲベール銃の銃身内部に螺旋状の溝(ライフリング)を施し、弾丸を回転させ
て飛ばすことにより、命中精度を飛躍的にあげることに成功した。
弾丸もそれまでの球形からドングリ形の「プリチェット弾」に改造された。し
かし、銃口から火薬、弾丸を込める方法は従来と変わっていない。
これらの銃はイギリスやアメリカでも改良を加えながら量産され、特にアメリ
カの南北戦争で使われた銃が、その後日本に大量に輸入されているといわれる。
ここに展示した銃はミニエー銃を改良し、アメリカで1855年に生産開始さ
れたスプリングフィールド銃を手本に、さらに日本で生産された銃である。
銃の特徴として、撃鉄部にある10円玉大のくぼみに巻紙雷管(玩具のピスト
ルの巻紙のようなもの)を装着し、発火した。
発火装置はアメリカ製スプリングフィールド銃を正確に模倣しているが、銃身
内にはライフリングは確認できない。当時の日本にライフリングを刻む技術がま
だなかったことをあらわすものかもしれない。
里正日誌の慶応二年(1866年)には、江川代官所が勘定所に対し、舶来ミ
ニエー銃150丁の受け渡しを願い出たが、在庫がないため、当面の措置として
和製ミニエー銃15丁が下されたことが記録されており、その後、代官所をとお
して蔵敷村に渡ったものがこの銃とも考えられる。
銃については、日本近代史研究家の鈴木徳臣氏にご教示いただきました。」
展示場の解説板をそのまま引用しました。
砲術訓練
引き続いて、専門家による砲術稽古が行われました。
・日時、慶応元年(元治2年・1865)6月13日~30日間
・場所、田無村西光寺
・指導者、代官手代増山鍵次郎、鉄砲教示方岩嶋廉平
・稽古期間中の6月22日、火入れ訓練が行われ
「カン(管)三千但三袋、合薬三貫目但六袋」
注 カン(管)=雷管・発火具 胴乱=銃丸を入れる革製の袋
が蔵敷村名主杢左衛門に渡されました。下に引用した文書に記載されています。
・慶応元年(元治2年・1865)7月4日
「高島流小筒10挺、御紋付胴乱10箱入りで」
蔵敷村名主・杢左衛門に預けられました。
◎火薬類の交付も銃の借り上げと同様に
村が借り上げ、農兵が使用する方式をとっています。
慶応元年(元治2年・1865)6月20日願い文と6月22日請書
(2022.03.19.記 文責・安島)