長い長い蔵敷村の独立運動(東大和市)

長い長い蔵敷村の独立運動(東大和市)
 
江戸~明治時代を通じ
・蔵敷農兵調練場
・蔵敷寄場組合
 など、東大和市の中でも世に知られた村に「蔵敷村」(ぞうしきむら)があります。
 しかし、江戸時代には、公的には「奈良橋村之内 蔵敷分」で、独立した「蔵敷村」とは認められませんでした。
 蔵敷地域の人々は自主的に「蔵敷村」を使うようにしました。また
 周辺の村々も連絡文書に「蔵敷村」と書くなど、同格の村として対応しました。
 それにもかかわらず、公式文書には「奈良橋村の内 蔵敷(鋪)分」と書かざるを得ませんでした。
 村人は、どうにかして独立しようとつとめます。今回は、その運動を紹介します。
 
蔵敷村の位置と姿
 
 江戸時代末、東大和市の区域内の村は次のようになっていました。

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狭山丘陵の大きな谷=現・村山貯水池と狭山丘陵を背にして、その南麓に広がる武蔵野台地
そこに、細長く、境界が非常に入り組んだ形で村々が形成されていました。
蔵敷村には、左側(西側)に芋窪村、右側(東側)に奈良橋村が隣接して居ます。
ところが、最初は、蔵敷村は独立の村ではなくて、奈良橋村の中の蔵敷という一地域に扱われていました。
少し経過を辿ります。
 
村切りにより、奈良橋村の一部に

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天正20年(1592)、突然、徳川家康の直属の家臣・石川太郎右衛門が
家康から領地を拝領し、奈良橋村と名付けて、この地に配属されてきました。
その時、どうしたことか、蔵敷は独立した村とは扱われず
奈良橋村の一部、「蔵敷分」として処理されました。
 
その理由は明確ではありません。幸いなことに、いくつかの資料があります。
 
①「享保二〇年(1735)蔵敷村古新田高反別元帳」です。
名前の前に○印の付いた人は寛文期(1661年~1672年)に新田開発をした人です。
 
そのため、この表から
   前期本百姓           34名(第1俵○印なし)
   寛文期新田開発 本百姓とりたて 25名(第1俵○印あり、金左衛門を除く)
                 合計59名
 
で、1661年から1672年に至る、寛文期の新田開発によって、25名が本百姓に取り立てられたことが分析されています。
 (関 利雄 蔵敷村の新田開発 大和町史研究2p66)

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②享保18年(1733)年貢割り付けの書状です。
 奈良橋村の地頭・石川太郎右衛門が領地を幕府に戻した時の年貢納付状況です。

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石川太郎右衛門拝領の総額は 高三百三拾石でした。ここから蔵敷高分を差し引くと
   蔵敷分高        高百六拾弐石弐斗三升
   奈良橋分高は      高百六拾七石七斗七升になります。
  わずか五石弱の違いで、両村、ほぼ同じと云えます。これでは、
 
「なんで、おら方が、奈良橋分なのよ、同じじゃねえか」
「そうよ、おかしいよ、
 五石をおら方へたけたって(乗せる)いいから、蔵敷村にしろ!」
と蔵敷村の人々の気分が高まります。
 
 以上から、蔵敷地域は
 ①により
 ・寛文期(1661~1672)の新田開発によって、25名が本百姓にとりたてられたこと
 ・それ以前の本百姓は34名であったことがわかります。
 寛文期以前の34名による生産高が不明ですが、天正20年(1592)家康の村切りの際には、一村としては成り立たない状況であったのかもしれません。
 
 その後の新田開発により、
 ②により、享保18年(1733)には実質的に村としての実力を持つばかりか
 奈良橋村と同じレベルの年貢負担額であることがはっきりしました。
 
 こうなると、蔵敷村の人々にとっては、「奈良橋村」の「蔵敷分」では居られません。
 「早く、蔵敷村にしろ」との声が高まります。次に続けます。
 
 (2023.07.02.記 文責・安島喜一)