いきなり村ができた! そして、村の形が整うまで(東大和市)

いきなり村ができた! そして、村の形が整うまで(東大和市)
 
「今度から、おら方は芋窪(いもくぼ)だと」
「おら方じゃ、奈良橋(ならはし)とか云ってんど」
「いってえ、誰がつけたんだべねえ」
「新しく来る地頭様だってよ」
「・・・・」
 
天正19年(1691)です。
後北条氏が秀吉に敗れ、武蔵国が徳川家の支配になりました。
これまで、狭山丘陵の谷ッや南麓に集落を営んでいた村人に、大変革が迫ります。
自分たちの住んでいるところが区切られ、そこに新しく名前がついたのです。
 
順序を追ってみます。
中世、主に1400年代、現在村山下貯水池に沈んだ区域と狭山丘陵の南麓です。
 

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・古代から中世にかけて、この地に住んだ人々は
・「○○が谷ッ」「○○谷戸」と呼ぶところに
・石川とか内堀、杉本、宅部などの名前をつけて、
・指導者がグループを作り、散在していました。
 
村切り(むらぎり)
 
ところが、1591~92年にかけてのある日、いきなり
「芋窪村380石は酒井極之助と同郷蔵」「奈良橋村330石は石川太郎右衛門」・・・
と家康さんから辞令をもらって、地頭と呼ばれる見知らぬ支配者がやってくることになりました。
いわゆる、村切りです。

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村の名のついたところはおおむね上の図と推測します。
どのようにして名付けられたのか、どのように区切られたのか
いずれも伝わりません。詳細は別に記します
 
さらに、実際に現地をみると、
家康からの朱印状に書かれた石数と実際の穀物の生産高が合わなかったのでしょうか
解決に、どうやら、隣の地域に飛び地を作ったりして合わせたようです。
高木村と奈良橋村にその跡を追えます。

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奈良橋村の区域内に高木村の区域が相当入り込んでいます。
 
武蔵野の原野を新田開発
 
江戸市中が未整備なため、地頭は拝命されると村に家族と共に住み、陣屋を設け、江戸城へは馬で通勤登城をしました。
一方で、支配の体制が整うにつれ、強まるのが、村人の生活の向上欲求と地頭の年貢確保です。
目の前に広がる武蔵野の原野に目が向きます。

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村人は原野の新田開発に乗り出しました。
 玉川上水、野火止用水の開削に乗るように、競って開発を進めました。
 互いに独立意識の強い村人たちです。お互いに競い、時には争いながら
 遂に1600年代末には玉川上水、野火止用水際まで開発を進めました。
 結果、出来上がったのが、縦に細長く、境界がデコボコと出入りの激しい村々でした。

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労苦を重ね、独立心が強い村々は、以後様々な面にそれが現れ、東大和市の特徴となります。
詳細は別に記します。さあ、畑を作るぞ
 
「蔵敷分」の解消要求
 
もう一つ問題がありました。
他の村と何も変わらないのに、公的には、「村」の名前を名乗ることが出来ない地域があることです。
上図の蔵敷村です。
 
当初の朱印状の村は「芋窪村」「奈良橋村」「高木村」「後ヶ谷村」「清水村」です。
どうしたことか、上図の「蔵敷村」はありません。「蔵敷分」として奈良橋村に含まれていました。
ところが、隣接する村も、遠く離れる村々も、「蔵敷村」として何の隔てもなく対応します。
周辺地域では「蔵敷村組合」など、広域組織の代表村と位置づけすることもあります。
蔵敷村も代官、幕府関係以外には「蔵敷村」を名乗ります。
しかし、公式には、全て「奈良橋村 蔵敷分」として奈良橋村に含まれて扱われます。

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1つの例です。万延元年(1860)年に、蔵敷村から代官の江川太郎左衛門に提出した文書です。
提出者は蔵敷村の名主など村役人ですが、「奈良橋村之内 蔵鋪分」としています。
蔵敷分(ぞうしき)は蔵鋪(ぞうしき)分とも書きました。
 
蔵敷村に住む村人たちは、これに耐えられません。ことある毎に「蔵敷村」の表示を求め独立運動を続けます。
周辺の村々も独立した「蔵敷村」として交流します。
にもかかわらず、明治維新になって解消されるまで遂に実現しませんでした。
その詳細は別に記します。
 
以上、江戸時代の村の形が整うまでの概略と問題をまとめました。
詳細は各ページに記します。