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高札の書き換え

高札の書き換え  ご一新で、新しい時代に入りました。東大和の村々にも、新政府軍の動向が伝えられ、旧幕臣の帰国や浪人などの往来があり、厳しい空気が生まれていました。そのような中で、早速、「五箇条の御誓文」(慶応4・1863 …

谷ッに散在する集落(東大和市の中世2)

谷ッに散在する集落(東大和市の中世2)  中世、東大和市域の人々はどこに住んでいたのでしょうか?  どのような生活をしていたのでしょうか?  ・狭山丘陵のほぼ中央の峰に、古代からの多摩郡と入間郡の境界が定められて  ・狭 …

村山党の武士の館

村山党の武士の館  狭山丘陵周辺に本拠を置いた村山党の武士はそれぞれに館を構えたとされます。  その全容は明らかではありませんが、次のように訪ねることができます。 ・山口氏の館(山口城 所沢市)山口城の土塁や構えが残され …

鎌倉時代、東大和地域の武士団は?(東大和市の中世1)

鎌倉時代、東大和地域の武士団は?(東大和市の中世1)  狭山丘陵周辺の中世の初期は武蔵七党の時代に当たります。東大和市域には、どのような武士団が定着していたのでしょうか? 残念ですがはっきりしません。 武蔵七党  治承4 …

村が迎えた明治元年

村が迎えた明治元年  明治を迎える村は大きな緊張に包まれていました。東大和市域の村々の明治元年の出来事を追ってみます。 慶応4年(1868)1月です。  「1月1日、門松を立つる事を止(とど)め、年礼を休す」  と隣接中 …

江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)

江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)  今では想像も出来ませんが、狭山丘陵の麓から南側は人家も何もない、武蔵野の原野が広がっていました。そこに一筋の道が出来ました。そのお話です。  東大和市周辺には、狭山丘陵の …

村に来た地頭様

村に来た地頭様  家康の家臣が村に来たのは、江戸市中が未整備なことと、つい先日まで後北条氏支配であった村々の治安維持が目的であったと考えられます。地元では「領主様」「地頭様」と呼ばれました。  「泣く子と地頭には勝てぬ」 …

村に地頭がやってきた

村に地頭がやってきた  天正18年(1590)、小田原合戦が終了、秀吉は家康に関東移封を命じます。家康は早くも7月から8月にかけて江戸に入りました。東大和市の旧家の杉本家28代勘解由種繁(寛永13・1636年6月14日没 …

村山貯水池(多摩湖)に沈んだ古村の移転

村山貯水池(多摩湖)に沈んだ古村の移転  大正4年(1915)、石川の谷(上貯水池)から移転が開始されました。全162戸、大半が丘陵の南側(表)に移りました。家財道具は丘陵の坂道を、喘ぎあえぎ、家族中で大八車の後を押して …

村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の住居

村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の住居  村山貯水池に沈んだ地域には、162戸の家々がありました。161戸との記録もありますが、市民グループの調査により実際に復元した数は162戸でした。その配置は下図の通りです。 & …

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