江戸時代の村の人口(蔵敷村)
江戸時代、村の人口はどのように推移したのでしょうか?
東大和市を構成していた村の一つに「蔵敷村」(ぞうしきむら)があります。
狭山丘陵に刻まれた谷ッに本拠を構え、その南に広がる武蔵野の原を新田開発した村です。
現在の東大和市駅周辺は蔵敷村の人々によって開発されています。
石数215石で1600年代中頃から幕府料として代官の支配下にありました。
その人口動態を示す貴重な資料が大和町史研究にあります。
安永7年(1778)から明治2年(1869)に至る90年間の宗門人別帳による人口の動きです。
安永7年(1778)250人であった人口は徐々に減り、寛政8年(1798)には201人まで減ります。
その後、増減を続け、文政元年(1818)には、ついに最低の198人となります。
以後、少しずつ増加を続け弘化元年(1844)には262人となります。
その後、明治2年(1869)に至る25年間に、人口は急激に増加したことがわかります。
この間、天明の飢饉、寛政の政治改革と自然条件、社会的条件の変化を経ます。それらが微妙に関わり合っているであろうことが推測されます。
同じ資料から、東大和市史が 家数と奉公人の関係を次のように整理しています。
家数は、安永7年(1778)~天明6年(1786)まで57軒ですが、以後寛政8年(1796)まで徐々に減少し53軒となります。
10年間で5軒が潰れ百姓になったことがわかります。人口は約 10年間で、約50人が減少しています。
この間の奉公人の状況を見ると、村内から村外に出奉公に行く者が、村内抱えより圧倒に多く、やむなく出稼ぎに行ったことがわかります。
人口の男女構成を見ると各年を通じて女性の方が少なく、この時期の特徴のようです。出奉公にゆくか、一生独身で、親元の納屋で暮らす「おんじー」と呼ばれるもの悲しい言葉が残ります。
(2017.07.13.記)