炭の買い出し途中で争い(寛政3年・1791 蔵敷村)
炭の買い出し途中で争い(寛政3年・1791 蔵敷村)
駄賃稼ぎでしょう。炭の買い出しの途中で喧嘩になって、幕府の検視を求める事件が起こりました。
寛政3年(1791)1月です。蔵敷の村人が青梅まで炭を買い出しに行きます。村山道を通って、途中の新町で喧嘩になりました。その騒動と結末が東大和市に残されています。いろいろ、教えて頂きたいことが含まれています。
寛政3年(1791)正月 「新町・左義長の事に付いての証文の写」の文書です。蔵敷内野家『里正日誌』に記されています。
意訳します。
・寛政三年(1791)一月十八日 蔵敷村の権之助の倅・金左衛門が
・青梅村へ炭を買出しに来たところ、
・新町村の左義長のところで子供と口論し、
・双方が云い合いとなり、子供ながら大勢のため、
・金左衛門が少々痛めつけられて、途中、うずくまって居たので、
・村内の者が早速に立会い看病などしましたが、
・隣村の馬士連(馬子・まご、うまかた)も大勢いて、互に云い分が交わされた上、
・その村方よりも御願がなされたので
・昨21日、御検使様が御出あそばされ、今朝、御吟味がありました。
・近村の名主達が訴えを取り下げ、双方に意見を求めて
・得心の上で内済(裁判にしないで内々で処理する)しました。
・子供の口論ではありますが、相互に云い分があり、御公議にも及ぶことになったので
・今後、往来の者は「がさつ」(細かいところに気が回らず、言葉や動作が荒っぽい)なことがないよう、物事を穏便にするように
・扱い人ともに云い聞かせました。
・右の趣旨をあい慎むように申しあげます。
・後の証拠のためこの書類をつくります。
多摩郡新町村
名主 藤左衛門
組頭 儀右衛門
百姓代 源兵衛
寛政三年亥正月廿二日
蔵敷分
御村役人中
1買い出し、駄賃、稼ぎ
この事件の背後には多くの問題がありそうです。農間稼ぎ・駄賃稼ぎの基本問題です。
この時代、一般農民が商業をすることは制限されていました。「髪は藁で束ねよ」で紹介しましたが
「百姓が余業の商ひ等をすることなど、・・・不埒である」
とされました。これらについて今回紹介する事件はいろいろな面で語ります。
◎なぜ、蔵敷村の村人が青梅まで炭を買い出しに行くのか
・その理由は書かれていませんが、村明細帳などで、自家消費ではなくて
・買った炭を馬に背負わせて江戸のお得意さんまで運び
・そこで運び賃として駄賃を得る(=商業ではない)
ための炭と考えられます。
◎新町村、隣村の馬士連
文面から、青梅に行く途中での出来事で
・新町の左義長のところで「子どもと口論」になっていますが
・炭を買い出しに行く者と新町の若者との間の摩擦ではないでしょうか?
「なんで蔵敷のお前らが、稼ぎのために青梅へ買い出しに行くんだ」
「俺たちの持ち分を侵すな」
との言い分がありそうです。
◎さらに隣村の馬士連(馬方)が口出しをします。
これも理由が書かれませんが
「何で、蔵敷辺りから、俺らの方へ買い出しに来て、俺たちの領分を侵害するんだ」
「何で、新町は俺らの仕事にちょっかいを出すんだ」
の意趣が含まれているように思えます。
2事件にしないで、内々で納める
◎一度は、幕府の検使により吟味を受けるが、裁判沙汰にはしない
・相互に云い分があり、御公議にも及ぶことになりました。
・結論は裁判にはしないことで解決しました。
裁判にすると、対応日数や経費がかかります。白黒をつけると賠償問題が継続します。
・また、新町の一団が江戸に上がる時、蔵敷前を通ります。
この時、蔵敷や周辺の村々から嫌がらせを受けるのを避ける必要があります。
これらを避けるため、当時の解決の方法をとったのではないでしょうか。
東大和市内の記録では、余程のことでない限り、この内済の方法がとられています。
3駄賃稼ぎは商売では?
◎自村での生産品ではなく、他村の生産品を買い出しに行く
・これは実質的には「仕入れ」ではないでしょうか。
・駄賃稼ぎとして、運搬料にしていますが
運び先の支払額、仕入れ額、運搬経費等の明確化はされていません。
・幕府、村、生産者、購買者が暗黙の内に理解し合って
・「商売」とはしなかったようです。
江戸新宿でも争いがあり、対応のため、清水村では、江戸市中でも名の通った修験が付き添っています。
東大和のよもやまばなし、モニュメントの「火をふところにいれた法印さん」がその情景を伝えます。
(2020.10.18.記 文責・安島喜一)