比翼塚(東大和市)
比翼塚(東大和市)
高木の明楽寺墓地です。一番奥に、山形の石碑が二つ並んでいます。
地元では比翼塚と呼びます。『東大和のよもやまばなし』に慈しんで語られます。
まつった年次 明治6年(1873)に奥さんが亡くなる。その後、1~2年後か?
まつった人 高木村のゆかりの人々
大きさ 高さ地上約70センチ 同50センチ
石 質 調査中です。
比翼塚について、辞書を調べると
「愛し合った二人を同じところに葬った塚」
と出てきます。
この塚が建てられた経緯です。
箇条書きにします。
江戸から明治に変わろうとする
・慶応4年(1868)2月4日
・徳川慶喜は家臣に隨身の自由を認めて、自ら新しい途を開くことを勧めました。幕臣は
・徳川家達に従って新領地の駿府へ移住するか
・新政府に帰順して幕府に仕えるか
・武士を止めて新たな世界へ乗り出すか
それぞれの方途で茨の道を切り開いたようです。
その時
・奉公人の里、高木村の明楽寺の庫裡に留守番として住んだのが宮嶋巌氏でした。
・宮嶋巌氏は、江戸南町奉行遠山家ゆかりの武士とされます。
村人と共に
・その後、宮嶋巌さんは高木神社の神官となり
・明楽寺の庫裡で開かれた寺子屋の師匠となります。
・維新後は明楽寺の会所に勤務し、村の事務を処理しました。
・明治6年8月15日、巌さんは病により亡くなりました。
・百ヵ日が過ぎた11月26日です。喜与さんが夫のもとへと旅立ちました。
・膝を紐で縛り、側に短刀がおかれていました。
・ゆかりの村人達は二人の功績を想い、冥福を祈って
・この塚を建てたと伝わります。
比較的こじんまりした明楽寺墓地の奥にひっそり建つ比翼塚は、改めて江戸末と明治初めの東大和を静かに語ります。
◎「比翼塚」として、よもやまばなしに伝わり
◎『里正日誌』(13巻p266)に、喜与さんが亡くなった経緯が綴られます。
(2021.10.24.文責・安島喜一)