六十六部廻国供養塔について3

六十六部廻国供養塔について3

国分寺と妙法蓮華経

 六十六部は妙法蓮華経を各地の国分寺に納めたとされます。
 その理由はどこにあるのか?
 天平13年(741)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出されました。内容は各国に
・七重塔を建て
・金光明最勝王経(金光明経・僧寺)と妙法蓮華経(法華経・国分尼寺)を写経すること
 でした。
・六十六部の行者は国分寺が各国の代表的な寺院であることと、
・この妙法蓮華経(法華経)との関わりを重視したと思われます。

武蔵国分尼寺跡 東京都国分寺市
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 かっての東大和市域の行者は、東大和市域を出発して、
 まず最初に、武蔵国分寺(当初の僧寺・尼寺は焼失、薬師堂が再建された)を訪れた事と思います。

廻国にどのくらいの日時と費用がかかったのか

飛行機も列車もない時期です。
・全路、徒歩でしようか。
・馬に乗れたのでしょうか。
・宿泊はどのようにしたのでしょうか。
・全行程何日ぐらいかかったのでしょうか
・約9ヶ月を要したとする例もあります。
・相当の日時と経費を必要としたはずですが
 東大和市には、資料がありません。

・余程経済的に豊かな人か
・村中が費用持ちで送り出したか
でなければ、賄いきれません。

清水村の例
 清水村の六十六部供養塔の例です。

清水観音堂の前にまつられる六十六部供養塔
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 清水村では、享保9年(1724)
 施主 清水村   
 廻国者 俗名 野口助三郎 法名 本願了誓
 導師 野口村の正福寺の住職
 近辺村中の男女が助援
と刻まれています。村中総掛かりで行われたようです。

芋窪村の例
芋窪村では村名が大きく、その下に行者の名前が刻まれています。

芋窪慶性院にまつられる六十六部供養塔
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芋窪の慶性院にまつられる六十六部供養塔には
 明和二年(1765)乙酉三月 日
 武刕(州)多麻郡芋窪村 行者
             圓入
とあります。

行者圓入が実際に回国し、芋窪村が大きく刻まれていることは
村中のバックアップがあったことが考えられます。

・これらの例では背景に、村や支援者の応援がありますが
・実質的には、多くが、施宿、施食、お布施などではなかったかと推定します。
・訪れる六十六部に対して
・その地の人々が宿や食事を施したと聞きます。
一方、行者の方も
・鉦をたたいたり、鈴を鳴らしたりして
・家々の門口に立って経を読み
・喜捨を受けることもありました。
・そのため功徳を称えられる半面
・さげすまされる(蔑)こともあったようです。

様々な事が想定される六十六部供養塔、東大和市内では11基を目にすることが出来ます。
それぞれについては個別に書きます。

(2021.12.10.記 文責・安島喜一)

六十六部廻国供養塔について1
六十六部廻国供養塔について2

石造物