明和2年(1765)六十六部供養塔 慶性院(東大和市)

明和2年(1765)六十六部供養塔 慶性院(旧地は林堂)

 特徴ある六十六部供養塔が慶性院の境内にまつられています。
・廻国したであろう行者の名前「圓入」と
・「武刕多麻郡芋窪村」と通常彫られる武州多摩郡芋窪村ではない
 彫りがあります。東大和市内六十六部供養塔中でただ一つです。

明和2年(1765)六十六部供養塔
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まつられる場所

 芋窪慶性院山門を入り本堂から墓地に向かう途の左側です。
 下図右から2番目の塔です。

慶性院石造物群 クリックで大

 現在はこの地にまつられていますが、もとは、林堂の前にありました。

正面

明和2年(1765)六十六部供養塔 正面
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蓋付方形石碑
高さ108㌢
幅32.5㌢ 奥行き23.5㌢
台石

六十六部供養塔上部 クリックで大

上部に
 バク(釈迦) 六十六部供養塔
 と彫られています。

右側面

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右側面
明和二年乙酉三月 日
明和2年(1765)

左側面

左側面
武刕(州)多麻郡芋窪村           行者 圓入
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 武刕(州)多麻郡芋窪村
          行者
          圓入

 この「多麻郡」は延喜式に記載された郡名とされます。
 多麻郡、多摩郡、多磨郡とあるなかで
・多麻郡が東大和市周辺ではどのような範囲で、
・いつ頃まで使われていたのか関心が寄せられます。
・この塔は、1700年代、芋窪村で使われていたことを示します。
・東大和市域では、この塔以外の六十六部供養塔には多摩郡が使われています。

行者圓入と林堂

左側面下部 クリックで大

 左側面下部に彫られた
・行者圓入とはどのような人物なのか、
・どのようにして66カ国を廻ったのか、
・旧地・林堂との関係は・・・
 など様々まな謎を問いかけます。

・行者圓入林堂に居住し、行者として村人達に接し、
・発願して、明和2年(1765)、実際に六十六国を廻ったことが推定されます。
・林堂には享保7・1722年の石造の地蔵菩薩立像がまつられていること
・堂は残されていた棟札から、元文元年(1736)辰十二月建立とされたこと
 がわかります。
・行者圓入はそれから29年後にこの六十六部供養塔をまつりました。
・狭山三十三観音の十九番札所であるとともに、林堂の持っていた意義と役割がしのばれます。

旧位置

 現在は慶性院にまつられていますが、かっては、林堂の敷地内にありました。この地に移された経緯は不明です。
 慶性院は村山貯水池建設に伴い、大正11年(1922)に湖底に沈む地から、現在地に移転しました。

明和2年(1765)六十六部供養塔関係位置図
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 林堂の位置は狭山丘陵の麓を走る広域道である村山道から少し南に入ったところで、堂は狭山三十三観音の十九番札所です。
 江戸街道へもつながり、地元の村人の信仰と共に他所からの人々の往来も多かったところです。供養塔は多くの人々に拝されたことと思います。

 そして、この供養塔は実に謎に満ちています。一つでも解きたいので、情報をお知らせ下さるようにお願い致します。

 (2021.12.30.記 文責・安島喜一)

 慶性院

 六十六部供養塔

 石造物