農兵調練場3 上新井村組合
農兵調練場3 上新井村組合
江川農兵の設置から、東大和市域の村々が含まれる上新井村組合の結成、蔵敷組合の分離までの大まかな流れです。
江川農兵の設置
・文久3年(1863)10月6日、幕府海防係から武・相・豆・駿の幕府領に限って、農兵取り立ての決定通知が出されました。
東大和市蔵敷内野家に伝えられた『里正日誌』では次の通り書き写されています。
・江川代官支配地に限る
・見込みの通り「銃隊」を取り立てる
・苗字(名字)帯刀は許可しない
と通知されています。
武士の誉であった名字帯刀とは別の途の「銃隊」許可です。
背景には様々な葛藤、動きがあったものと推測します。
・11月15日、関東の全代官に「申し渡し」がありました。
ここには
・身元よろしき者
・農民の中で、壮年強健の者を農兵に指定すること
・農業を営む間に軍事訓練を行い、有事には兵卒として動員すること。
などが示されています。
・最初は武相豆駿の四カ国
・農兵総数およそ500人
・小筒 500挺(胴乱管入共)
を予定したことが文面からうかがえます。(長文なので引用は省略します)
この江川農兵設置を伝えられた後の東大和市域周辺の動きです。
農兵趣意書
文久3年(1863)11月2日、江川太郎左衛門英武(ひでたけ 英龍の子供) から、支配の村々に「口達書」「隊伍仕法」などが通達されました。農兵の大まかな姿がわかります。
蔵敷村の内野家に残された農兵取り立ての趣意書です。長文ですので一部を現代語で紹介します。
「外冠(外国から攻めてくること)はいうまでもなく、宿村々の憂患を未然に防ぐ配慮から、村高又は人員に応じ過当にならない範囲で、壮年強健の者をもって農兵を取り立て、期限を定め交代するようにしたい。これは畢竟(ひっきょう=つまるところ)、上は国家の御為、下は宿村の無難、産業・子孫繁栄の基本と理解し、気力を奮い立て、勉励したいものである。
前条の趣意を納得し、組合限り精選人数をとりきめ、宮社・寺院の境内その他近所で都合のよい場所を見立て、角打(鉄砲の打ち競べ)銃隊調練等を農隙(のうげき=農作業の合間)を見計い稽古をするように。もっとも教授役の者の差図を請けること、農兵は口論潜上(せんしょう=さしでがましいこと)等決して致さず、睦まじく、謙遜専一に心得ること、質素節倹の風に復し不孝不義争訟等なく取締りよくすること。・・・」
と記されています。(『里正日誌』8p307)
武蔵国の農兵~上新井村組合
このようにして、武蔵国に農兵が設置されることになりました。
次の16組合で構成されました。
1 田無村組合21ヵ村38人(以下組合を略)、
2 日野宿23ヵ村39人、3 八王子宿7ヵ村50人、
4 駒木野小仏10ヵ村25人、5 青梅村13ヵ村25人、6 五日市村18ヵ村25人、
7 拝島村28ヵ村64人、8 氷川村16ヵ村12人、9 檜原村1ヵ村6人、
10 上新井村21ヵ村25人、11 木曽村11ヵ村12人、12 藤沢宿8ヵ村50人、
13 藤沢宿之内村瀬谷野新田3人、14 寺山村1人、15 日蓮村10ヵ村25人、
16 中野村組合6ヵ村15人
◎16組合からの農兵数は総勢415人でした。詳細は別に記します。
東大和市周辺では上記の内「上新井村組合」が結成されます。ところが、それ以前に、同じ地域に文正改革組合村の「所沢組合村」が結成されていました。その関係と経過です。
所沢組合村(文政12年・1829に結成)と上新井組合村
村々は農兵の組織作りに入りましたが、当時、多摩入間地域には、いわゆる文正改革組合村の「所沢組合村」が結成されていました。この組織がそのまま農兵を選出できれば問題がないのですが、この中には、江川代官支配地だけでなく、寺社領や徳川家臣(旗本)の領地が含まれていました。例えば、東大和市域では清水村が旗本支配でした。
所沢組合村が結成された理由は、当時、農村が荒れ、無宿、悪者などの横行、農間余業の取り締まり等が必要となり、関東取締出役を置きました。その行動範囲、受け持ち区域が文政の改革組合村でした。
ところが
・農兵設置は江川代官支配地に限られ
・文政改革組合村には江川代官支配地以外の他
・寺社領や徳川家臣(旗本)の領地が含まれていました。
・どのように協議したのか不明ですが
・先に紹介した趣意書に基づき、
・新たに、農兵用の組合村を結成することになり
・東大和市域の村々は上新井組合村に属することになりました。
参考までに、その通知書を紹介します。
上新井村組合が結成された
・文政改革組合村から上新井村が形成される公式の理由として
・次の指示書が江川代官から各村に届きました。(文久3年11月2日)
・「この度、御用の筋の他、支配組合にては不都合の次第もあるので」
と理由付けをしています。ここからは
・社寺地、旗本支配地を除く
・江川代官支配所で構成する
・などのことは一言もありません。何故なのか不思議です。
・結果、次の図の通り、上新井村他20ヵ村で(農兵数25人)まとめられました。
入間郡の村 10か村
山口堀之内、氷川、菩提木、北野新田、三ヶ島、三ヶ島堀之内、打越、北野、上新井、中北野新田
多摩郡の村 11ヵ村
野塩、日比田、南秋津、粂川、野口、廻り田、宅部、奈良橋、高木、後ヶ谷、蔵敷の各村
・なお、入間郡と多摩郡を分けて
・上新井村名主市宇右衛門は入間郡10か村
・蔵敷村名主杢左衛門は多摩郡11か村の代表として
・両人が万事引き受け、世話をするように、仰せつかっています。
・また、農兵の御用筋については田無村の下田半兵衛から受けるようにと指示されています。
・調練場は、野口村字萩山、上新井村字桃木久保に置くことが決められました。
上記図の中に二箇所記入されています。
上新井村組合の村高・家数・人別
農兵の数は上新井村組合を構成する村々の生産高や人口に応じて決めたようです。文久3年(1863)11月、江川代官所に「村高家数人別書上」を提出しました。
当時の村の様子がよくわかります。
・石高
・家数、家族の人数(男女別)
で、膨大な資料になりますので、東大和市域分を『里正日誌』から引用します。
ここでは東大和市域の村を挙げました。芋窪村は拝島組合に属し、清水は私領であるので別扱になっています。
書上の最後に、「上新井村組合」の21村の合計をしています。
・村高5217石4斗9升、家数1.151軒、人数6,397人 男3.395 女3.002人としています。
○印の付いた村々が入間郡の村々で10ヵ村
○印の付かない村々が多摩郡の村々で11ヵ村
◎上新井村組合の村ごとの石数、家数等は別に記します。
この上新井村組合も変化します。元治2年(1865)3月、幕府は武蔵、相模、下総の三国にある直轄領の支配替を実施しました。そのため、上新井村組合では、入り間郡の村々が江川領域外の区域となり、編成替えが必要となりました。○印の付かない多摩郡の村々11ヵ村が「蔵敷組合」を構成し分離しました。次に続けます。
(2022.03.02.記 文責・安島)
蔵敷調練場跡(市旧跡)