馬頭観音 清水観音堂1
馬頭観音 清水観音堂1
清水観音堂、道路側にまつられる馬頭観音様です。
清水村の人々が、江戸時代末にまつりました。
清水観音堂入り口、観音堂改修記念碑の左側にまつられています。
正面に「梵字の種子」と「馬頭観世音」の文字が刻まれています。
梵字は「ウーン」と読むそうです。
この塔の大きさ
高さ 95.5㌢
幅 33.5㌢
奥行き30.0㌢
方柱
台石2段
正面向かって右側面には「天下泰平 国土安穏」の文字が刻まれています。
この大きな願い、次に記す切実な現実から生まれたと考えられます。
注意しないと読み取れませんが
「文政七甲申年六月吉日 」(文政七年・1824年)
「多摩郡清水」
と刻まれています。
建立された文政という時代
この馬頭観音は文政7(1824)年に清水村の人々によって建てられています。
この年を迎えるまで狭山丘陵周辺の村々は、困難の最中にありました。蔵敷村の長の『里正日誌』が記録します。
・文政3年2月より霖雨(りんう・長雨)60日の間。
10月、幕府は倹約令を出します。
・文政4年2月より5・6月迄雨なし、
東国は干魃にて金壱両に付米壱石五斗なりしが俄に高直に相成、金壱両に付米壱石となる
3月、蔵敷村では、人数205人のうち、178人が飢え、貯穀の拝借願いを出します。
6月、後ヶ谷村、人数256人のうち、55人が飢え、対策を求められます。
・文政5年、西国干魃、東国洪水
拝島村では、「多摩川の溢水にて田方残らず川欠にまかり成り」の状況となりました。
狭山丘陵周辺でも作物の不作が続きました。
ついに飢饉が襲い、蔵敷村では、78人の飢人が発生しました。
加えて、風邪の一種が流行り、狭山丘陵周辺の村々は緊急対策に追われました。
・文政6年8月、暴風雨。
こうした天候不順、作物不作、飢饉、はやり病などをどうにか克服した後、
次の時代を求めて動き出したのが文政7年でした。
清水村の人々はここぞと、馬頭観音様をまつったと思われます。
天候不順の改善、豊作、疫病の退散、村内の安全、道中の護り・・・等を通じて、
さらに巾広く、「天下泰平 国土安穏」を祈願しています。
どこに建てられたのでしょうか
建てられた場所は、
・毎日の生活の根拠地を通る村山道
・貴重な農間稼ぎの中心となる江戸街道、
・所沢から八王子への絹織物、養蚕の道筋
など、いくつかが考えられます。それらについて調べています。
なお、東大和市内には文政という年代のはっきりわかっている馬頭観音が他に3基あります。
順次、ご紹介します。
(2021.06.30.記 文責・安島喜一)