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まちで学ぶ > 東大和の歴史 記事一覧
2024-08-02 15:57:46
東大和の歴史
3万年前の人、狭山丘陵に来たかも??!!
3万年前の人、狭山丘陵に来たかも??!! 「おじさん、3万年前だけど、東大和市にはどんな人が居たの?」 難問、難問、近所の中学生が持って来ました。 「3万年前かあ、・・・困ったな・・・・」 東大和に人が姿を見せ始めるのは今のところ、1万5千年位前とされています。 その倍の昔、…
2024-04-06 12:02:22
東大和の歴史
たかが30年 されど30年(東大和市郷土博物館開館 )
たかが30年 されど30年 東大和市立郷土博物館が開館して30年を迎えました。 1階企画展示室で、この30年間を振り返る展示をしています。 クリックで大 歴史的資料の展示と共に輝かしく登場したプラネタリュウムは新鮮で 各年代を通して喜ばれ、大きな関心と期待で注目されました。…
2024-04-02 14:17:39
東大和の歴史
昔のお産(『東大和のよもやまばなし』から)
昔のお産(『東大和のよもやまばなし』から) 「えッ、それ、本当ですか・・・?」 「まさか!」 「信じられない・・・」 異口同音に疑問の声が上がります。 今では考えられないし、信じられませんが、東大和市の昭和の初め頃までの実際の話です。 『東大和のよもやまばな…
2024-03-23 11:33:04
東大和の歴史
御霊大明神 地頭が大切にまつった
御霊大明神 地頭が大切にまつった 御霊大明神、今は狭山神社に合祀されています。 旧地は村山貯水池の湖底に沈みました。 その大明神、江戸時代の初期・宝永6年・1709年です。 時の地頭・溝口佐々衛門が大切にお守りしました。 供米、諸役の免除を約束して、その書類が残されています。…
2024-03-18 14:28:36
東大和の歴史
峡南橋
峡南橋 「狭南橋」(きょうなんばし)はどこにあったのですか? 出来ればその姿を見たいです。 との要望が寄せられます。 武蔵大和駅の近く、狭山丘陵南麓への道筋に架かる小さな橋でした。 江戸時代から活躍を続けた修験の持宝院(じほういん) 学問でも名をはせた大久保家へ入る路に架…
2024-03-12 18:26:30
東大和の歴史
芋久保村地頭・酒井氏
芋久保村地頭・酒井氏 家康から知行地を与えられた酒井氏は、天正19年(1591)~文禄元年(1592)に 芋久保村(以後芋窪村)、高木村に配属されて来ました。 家康が秀吉から関東への移動を告げられてから、まだ、数ヶ月です。 武蔵国 徳川家康家臣団配置図 クリックで大 江戸城…
2024-03-08 13:29:27
東大和の歴史
忍耐も限界の村人達 地頭に反乱 地頭も気の毒?
忍耐も限界の村人達 地頭に反乱 地頭も気の毒? 天保3年(1832)、芋窪村での出来事です。 村人が領主様の申し付けに、鉦(かね)・大鼓を打ち鳴して 「ダメ、いやだ」を表明しました。 ・村の指導的立場にある「年寄り」が指導して ・組頭、百姓代、小前と小規模ですが、名主を…
2024-03-01 08:45:57
東大和の歴史
蔵敷村の大井戸について
蔵敷村の大井戸について 文政四年(1821)のことです。 東大和地域一帯は猛烈な飲み水不足に見舞われ、その獲得に悩みました。 蔵敷村では、ついに、狭山丘陵の峰を越えて、 ・ねずみ沢(現在は村山貯水池内) ・新田開発した武蔵野の原野が広がる南果ての野火止用水まで 飲み水を汲みに…
2024-02-25 17:20:50
東大和の歴史
文政4年畑方旱損御見分書上帳
文政4年畑方旱損御見分書上帳 「稗と粟が主食だった」に記載されて居る「蔵敷村草損御見分書上帳」の原文です。 文政4年(1821)9月7日 蔵敷村の名主他村役人一同が代官平岩右膳あてに提出した「書上帳」の写しです。 クリックッデ大 『東大和市史』(p201)はこの文書から…
2024-01-01 17:02:26
東大和の歴史
明けましてお目出度う御座います。
クリックで大 明けましてお目出度う御座います。 何よりも各地で引き起こされている争いが一刻も早く収まり 平和の満ちることを願います。 90歳を超え、なかなかペースが定まりませんが 辰の力にあやかって 日々の活動の継続に務めます。 本年も宜しくお願い致します。 皆々様の…
2023-10-16 10:16:14
東大和の歴史
大筒車台用材之義御廻状(全文写)
大筒車台用材之義御廻状(全文写) 嘉永6年(1853)7月5日に届けられた廻状(読み下し全文写) クリックで大 『里正日誌』6巻p446 嘉永6年(1853)7月5日、勝田次郎役所より、 大筒の台車用の用材として欅(槻もおなじ けやき)を運搬するので協力せよ との通知が来ました。…
2023-10-13 16:59:24
東大和の歴史
市民がつくる郷土史ミュージアム
市民がつくる郷土史ミュージアム 第59回東大和市民文化祭の事業の一環として 市民がつくる郷土史ミュージアム 東大和市の今と昔を撮るを下記により実施します。 過去の東大和のまちかどと現在の街角を並べての展示です。 多くの方々のご来訪をお待ちしています。 期日 10月22…
2023-10-12 18:46:40
東大和の歴史
百姓は粗末な衣服をまとい、髪は藁で結え・・・
百姓は粗末な衣服をまとい、髪は藁で結え・・・ 50年余も続けられています この通達! 天保13年(1842)10月13日、「百姓風俗についての御触」が来ました。 天明8年(1788)2月14日にも「髪も藁にて節倹御触」が発せられています。 書き出しの文言をご覧下さい…
2023-07-28 18:23:08
東大和の歴史
幕末(安政3年・1856 東大和市)の村の様子
幕末(安政3年・1856)の村の様子 幕末の村の様子です。 統一的に記録する資料が少ない中で、安政3年(1856)の状況を『里正日誌』が伝えます。記述が簡略化されていますが、江戸末期の村の様子が読み取れます。先ず、東大和市域内の村々について引用します。 村々の名前と…
2023-07-22 11:20:54
東大和の歴史
明和九年(1772)の道しるべ(東大和市)
明和九年(1772)の道しるべ(東大和市) 雲性寺の前庭にまつられる石塔の中に、坂東・秩父・西国百ヶ所巡礼供養塔(高さ75㌢)があります。 この塔の両側面が道しるべになっています。 クリックで大 一番右側の奥が今回紹介する道しるべです(他所から移動)。 クリックで大 正面 …
2023-07-14 18:00:39
東大和の歴史
笠松坂の道しるべ(東大和市)
笠松坂の道しるべ(東大和市) 笠松坂、東大和市の西北端です。 クリックで大 地元では笠松峠と呼ぶ人もあります。 クリックで大 この一段と高くなったところに、村山貯水池と狭山丘陵の南麓を見渡すように「道しるべ」があります。 左端の石仏です。 クリックで大 東大和市にとって…
2023-07-11 10:52:25
東大和の歴史
奈良橋庚申塚の道しるべ(東大和市)
奈良橋庚申塚の道しるべ(東大和市) 東大和市の中央部、かっての江戸街道と青梅街道が交差する場です。 「庚申塚」があり、道行く人々の憩いの場であり、道しるべを刻む庚申塔がまつられていました。 クリックで大 道しるべは台座の中央部に刻まれています。 かすかに 東 江戸道 が読み…
2023-07-09 17:33:04
東大和の歴史
青梅橋の道しるべ(東大和市駅南 小平市)
青梅橋の道しるべ(東大和市駅南 小平市) 東大和市駅の南口、青梅街道の駅側の小平市の歩道に貴重な道しるべがあります。 江戸時代、安永5年(1776)2月建立の庚申塔(98㌢)の両側面に刻まれています。 クリックで大 東大和市駅の南口、北口へ続く、青梅街道の駅側歩道(小平市)…
2023-07-05 15:38:42
東大和の歴史
「村」と認めよ!「分」 付きはご免!!(東大和市 蔵敷)
「村」と認めよ!「分」 付きはご免!!(東大和市 蔵敷) 充分に自立した村にもかかわらず 「蔵敷」が地域、人口、生産高など充分に独立の村の状態にありながら、 村と認められずに「奈良橋村 蔵敷分」として 奈良橋村の一分野に扱われます。 「こんなことで、いいのかよ!」 堪…
2023-07-02 18:14:02
東大和の歴史
長い長い蔵敷村の独立運動(東大和市)
長い長い蔵敷村の独立運動(東大和市) 江戸~明治時代を通じ ・蔵敷農兵調練場 ・蔵敷寄場組合 など、東大和市の中でも世に知られた村に「蔵敷村」(ぞうしきむら)があります。 しかし、江戸時代には、公的には「奈良橋村之内 蔵敷分」で、独立した「蔵敷村」とは認められませんでした…
2023-06-25 09:08:55
東大和の歴史
いきなり村ができた! そして、村の形が整うまで(東大和市)
いきなり村ができた! そして、村の形が整うまで(東大和市) 「今度から、おら方は芋窪(いもくぼ)だと」 「おら方じゃ、奈良橋(ならはし)とか云ってんど」 「いってえ、誰がつけたんだべねえ」 「新しく来る地頭様だってよ」 「・・・・」 天正19年(1691)です。 後北条氏…
2023-06-21 18:04:59
東大和の歴史
蔵敷庚申塚の道しるべ(東大和市)
蔵敷庚申塚の道しるべ(東大和市) 蔵敷庚申塚の入り口すぐの左側 、柵にピッタリ張り付くように 道しるべの石塔があります。 クリックで大 三筋の古道が交差する角に、ポッツり円形の塚がありました。 蔵敷庚申塚と呼ばれます。江戸時代には、村のはずれにあたります。 その姿は変わりま…
2023-06-19 11:02:22
東大和の歴史
文化元年(1804)の道しるべ 東大和市狭山・霊性庵
文化元年(1804)の道しるべ 東大和市狭山・霊性庵 馬頭観音碑(高さ60㌢)の両側面が道しるべとなっています。 地名の扱い方が鮮やかです。 狭山・霊性庵の本堂裏側に多くの石造物と共にまつられています。 クリックで大 正面 文化元子年(ね) 馬頭観世音 三月二十七日 後箇谷…
2023-06-17 13:42:10
東大和の歴史
雲性寺 庚申塔(東大和市奈良橋庚申塚)
雲性寺 庚申塔(東大和市奈良橋庚申塚) 雲性寺前庭に享保十六年(1731)造立の庚申塔がまつられています。 江戸街道(現・新青梅街道)庚申塚に造立され、昭和40年代前半(1965~1969)に道路拡張のためここにうつされました。 雲性寺前庭 クリックで大 正面 クリ…
2023-01-21 18:39:21
東大和の歴史
奈良橋村地頭・石川太郎右衛門拝領の朱印状(写)
奈良橋村地頭・石川太郎右衛門拝領の朱印状(写) 徳川家康が関東に移ると共に、直属の家臣達が狭山丘陵周辺に配属されてきました。 その一人が石川太郎右衛門で、奈良橋村を治めました。 その時拝領した御朱印状(命令書)がなかなか見つかりません。 幸いに、石川氏の支配地であった蔵敷村の…
2023-01-18 18:02:12
東大和の歴史
竹槍を持って駆けつけます 嘉永7年(1854)正月 ペリー再来航
竹槍を持って駆けつけます 嘉永7年(1854)正月 ペリー再来航 嘉永7年(1854)1月9日、ペリーが再来航しました。 これに対応して 防衛、対外政策に脚光を浴びる江川代官と 泣く子も黙る関東取締出役から、それぞれに連絡が来ました。 その時の村人の対応です。 …
2023-01-11 10:35:34
東大和の歴史
悪党は直ちに捕らえよ! 外出は控えよ!! 関東取締出役からの命令
悪党は直ちに捕らえよ! 外出は控えよ!! 関東取締出役からの命令 嘉永7年(1854)1月18日、今度は関東取締出役から呼び出しです。 19日に、所澤村へ、各組合村の幹部は集まれ、との達し。 当時、狭山丘陵周辺の村々は、 ・江川代官所(幕府) ・旗本・幕臣(領主) ・寺…
2023-01-09 08:55:48
東大和の歴史
ペリー再来航、村は厳重に取り締まれ! 江川代官からの回状
ペリー再来航、村は厳重に取り締まれ! 江川代官からの回状 嘉永7年(1854)1月9日です。 ペリーが、旗艦を先頭に蒸気船(3)、帆船(4)の大陣容で浦賀沖に再来航しました。 前年の6月3日、初来航、6月12日、親書の回答受取りのため明春に再来することを告げて、 大…
2022-12-31 17:52:39
東大和の歴史
明けましておめでとう御座います
明けましておめでとう御座います。 クリックで大 中世や幕末の調べに時間をとられ、ご無沙汰致しました。 90才を迎え、忘れっぽさ、やり返しなどなどがいよいよ増し 自分でやきもきしています。 本年もよろしくお願い致します。 令和5年元旦 安島喜一 window.twttr…
2022-07-19 11:07:33
東大和の歴史
東大和観光ガイドの会第1回ガイド実施要領(テスト)
東大和観光ガイドの会第1回ガイド実施要領(テスト) (ご注意 ページ作成テストで募集等は終了しています) Ⅰ事業名・計画 「東大和の散策・奈良橋~高木コース」ガイド 1日時・天候・気温 令和4年(2022)7月23日(土) 2集合・解散場所 集合 奈良橋市民センター(午前…
2022-06-25 18:33:20
東大和の歴史
名探偵コナン星影の魔術師 戦場に輝くベガ
そら、来た! 夏のプラネタリウム 名探偵コナン星影の魔術師 戦場に輝くベガ の2本立て!! いずれもクリックで大きくなります。 コロナ禍、気をつけて、元気で行きましょう!! (2022.06.25.記 文責・安島) 東大和市立郷土博物館催物案内 window.twttr=(f…
2022-06-25 14:14:27
東大和の歴史
2022年企画展示 「日記が語る戦時中のくらし」
2022年企画展示 「日記が語る戦時中のくらし」 いずれもクリックで大きくなります。 日立航空機株式会社に勤めておられた戸田さんの記録です。 東大和市の指定文化財として残る「旧日立航空機(株)変電所」のあった工場に勤務されていた方です。 まだまだ、コロナ禍、充分に対応して、拝…
2022-05-23 22:51:21
東大和の歴史
鹿島台遺跡2 東大和市史跡(再投稿)
鹿島台遺跡2 市史跡 鹿島台遺跡の周辺では、従前から、縄文土器や石器が見つけられて、遺跡のあることが想定されていました。 そこに、住宅地化が進んできたので、昭和55年(1980)、事前調査が行われることになりました。 調査は下図の通り、4区画に分けて行われました。 出典『鹿島…
2022-05-23 22:38:28
東大和の歴史
鹿島台遺跡3 東大和市史跡(再投稿)
鹿島台遺跡3 市史跡 鹿島台遺跡2 市史跡からの続きです。 3地区 ・3ー3地点、集積遺構 3地区の集積遺構 『鹿島台遺跡 調査報告書』p8 クリックで大 ・実に興味ある遺構です。 ・焼け焦げた石が集まって転がっています。 ・旧石器時代のバーベキュー跡を思わせます。 ・ところが、…
2022-04-30 09:29:03
東大和の歴史
鹿島台遺跡3 東大和市史跡
鹿島台遺跡3 市史跡 鹿島台遺跡2 市史跡からの続きです。 3地区 ・3ー3地点、集積遺構 3地区の集積遺構 『鹿島台遺跡 調査報告書』p8 クリックで大 ・実に興味ある遺構です。 ・焼け焦げた石が集まって転がっています。 ・旧石器時代のバーベキュー跡を思わせます。 ・ところが、…
2022-04-30 09:29:03
東大和の歴史
鹿島台遺跡3 東大和市史跡
鹿島台遺跡3 市史跡 鹿島台遺跡2 市史跡からの続きです。 3地区 ・3ー3地点、集積遺構 3地区の集積遺構 『鹿島台遺跡 調査報告書』p8 クリックで大 ・実に興味ある遺構です。 ・焼け焦げた石が集まって転がっています。 ・旧石器時代のバーベキュー跡を思わせます。 ・ところが、…
2022-04-29 18:31:47
東大和の歴史
鹿島台遺跡2 東大和市史跡
鹿島台遺跡2 市史跡 鹿島台遺跡の周辺では、従前から、縄文土器や石器が見つけられて、遺跡のあることが想定されていました。 そこに、住宅地化が進んできたので、昭和55年(1980)、事前調査が行われることになりました。 調査は下図の通り、4区画に分けて行われました。 出典『鹿島台遺…
2022-04-29 17:47:48
東大和の歴史
鹿島台遺跡1 東大和市史跡
鹿島台遺跡1 市史跡 芋窪、豊鹿島神社の北側、鹿島台一帯の地下に眠る、とびっきりの遺跡です。 まだ、発掘していない地域が広く、今後の調査によっては、 狭山丘陵の縄文時代について、いろいろな発見が期待されます。 見つかった土器や石器はこの地域の縄文時代の特色を語るので 「…
2022-04-10 14:18:00
東大和の歴史
阿字庚申塔 東大和市郷土資料
阿字庚申塔 東大和市郷土資料 東大和市内でも、周辺市でも極めて特色ある庚申塔が雲性寺にまつられています。 「ァ字庚申塔」です。 東大和市では市文化財「郷土資料」に指定しています。 阿字庚申塔 雲性寺本堂内 クリックで大 所在地 東大和市奈良橋1-363 雲性寺 指 定 昭和55…
2022-04-05 09:28:35
東大和の歴史
徳治二年銘の板碑(東大和市指定文化財 郷土資料)
徳治二年銘の板碑(東大和市指定文化財 郷土資料) 円乘院に阿弥陀三尊種子、徳治二年(1307)銘の板碑が保存されています。 市保存・永仁2年(1294)、小嶋家・永仁4年(1296)、三光院・徳治元年(1306)に次ぐ年代の板碑です。 完全な姿を伝え、魅力的です。東大和市の郷土資…
2022-03-31 14:05:56
東大和の歴史
永仁二年銘の阿弥陀種子板碑 東大和市重宝
永仁二年銘の阿弥陀種子板碑 東大和市重宝 東大和市内で現在発見されている最古(永仁二・1294年)の板碑です。 東大和市の文化財・重宝に指定されています。 『東大和市史資料編』6p88の永仁2年板碑(以下引用の許可を得ています) クリックで大 指定の概容 所在地 奈良橋一丁目26…
2022-03-26 17:21:48
東大和の歴史
江川農兵上新井村組合 村高家数等書上帳
江川農兵上新井村組合 村高家数等書上帳 文久3年(1863)11月 武州多摩郡蔵敷村 名主 杢左衛門 武州入間郡上新井村名主 市右衛門 が江川太郎左衛門に提出した控えです。『里正日誌』から引用します。 ○印が入間郡の村々で、元治2年(1865)、代官の支配地変えによ…
2022-03-25 12:45:52
東大和の歴史
文久3年(1863)武蔵国の農兵
文久3年(1863)武蔵国の農兵 農兵取立人数見積書 江川太郎左衛門役所調 文久3年(1863)10月6日、幕府海防係から武・相・豆・駿の幕府領に限って、農兵取り立ての決定通知が出されました。 その内の武蔵国の16組合と組合構成村の数、石数、家数、男女別人数、農兵数の一…
2022-03-24 09:19:09
東大和の歴史
蔵敷調練場 隊伍仕法
蔵敷調練場 隊伍仕法全文 農兵の組織や指揮命令系統を示す隊伍仕法の全文です。 蔵敷組合 隊伍仕法 文久3年(1863)11月 クリックで大 蔵敷調練場5 農兵制度の運営へ戻る window.twttr=(function(d,s,id){var js,fjs=d.getElem…
2022-03-22 17:49:36
東大和の歴史
農兵訓練下稽古・定
農兵訓練下稽古・定 ・元治元年(1864)、芝新銭座で、選ばれた何人かが砲術訓練を受けました。 ・その訓練生と農兵同士が下稽古として教え合いました。 ・元治2年(1865)3月11日~15日、蔵敷村名主・杢左衛門の屋敷内の庭で下稽古がはじまりました。 ・その時の定めの全文です。 …
2022-03-22 14:33:40
東大和の歴史
江川農兵・新銭座調練場鉄砲方教授
江川農兵・新銭座調練場鉄砲方教授 元治元年(1864)9月、武蔵国の農兵幹部訓練を教授したメンバー 鉄砲方教授の一覧 新銭座調練場鉄砲教授一覧 クリックで大 例えば、慶応元年(元治2年・1865)6月13日~30日間、田無村西光寺で行われた砲術訓練には岩崎廉平が指導に当たっ…
2022-03-20 09:27:27
東大和の歴史
蔵敷調練場6の2 江川農兵と調練2
蔵敷調練場6の2 江川農兵と調練2 蔵敷村への調練場の新設 話題を蔵敷調練場に移します。 ・元治2年(1865)3月、幕府は武蔵、相模、下総の三国にある直轄領の支配替を実施しました。 ・そのため、これまでの上新井村組合の区域に、江川領域ではない部分が生じました。そこで、再編成を…
2022-03-19 19:57:18
東大和の歴史
蔵敷調練場6の1 江川農兵と調練1
蔵敷調練場6の1 江川農兵と調練1 ・文久3年(1863)10月、江川領に限って農兵の取り立てがありました。 ・その後、どのような調練が行われたのか追ってみます。 ・年号が元治2年(1865)4月6日より慶応元年とかわります。 ・市民が作る「東大和デジタルアーカイブ」との関連か…
2022-03-13 11:34:31
東大和の歴史
蔵敷調練場5 農兵制度の運営
蔵敷調練場5 農兵制度の運営 東大和市域の村々からも農兵が選ばれ、実働のための訓練がされました。 このページでは農兵が選ばれた背景、献金、農兵の組織などについて書きます。 蔵敷組合で実際に使われた農兵の服装や鉄砲 平成25年(2013)東大和市立郷土博物館で展示(許可を得て撮影)…
2022-03-10 13:59:31
東大和の歴史
農兵調練場4 農兵蔵敷組合の誕生
農兵調練場4 農兵蔵敷組合の誕生 これまで、江川農兵・武蔵国農兵・上新井村組合の結成の経過を紹介してきました。 約2年経過して、狭山丘陵周辺の農兵が変化します。 ・村には「所沢(寄場)組合」(文政12・1829年)がありました。 関東取締出役を置き、村に害を及ぼす者や荒れた…
2022-03-02 14:02:09
東大和の歴史
農兵調練場3 上新井村組合
農兵調練場3 上新井村組合 江川農兵の設置から、東大和市域の村々が含まれる上新井村組合の結成、蔵敷組合の分離までの大まかな流れです。 クリックで大 江川農兵の設置 ・文久3年(1863)10月6日、幕府海防係から武・相・豆・駿の幕府領に限って、農兵取り立ての決定通知が出されま…
2022-02-28 08:36:39
東大和の歴史
農兵調練場2 江川農兵の成立
農兵調練場2 江川農兵の成立 江戸末期、対外関係は一挙に緊張を増し 同時に、国内の混乱が続きます。その渦中に農兵制度が浮上してきました。 三つに分けて整理しました。 見えにくいのをお許し下さい。 クリックで大 注 江川家・農兵・多摩の動きの欄の下段、1865・蔵敷…
2022-02-25 14:08:50
東大和の歴史
農兵調練場(東大和市)1-1
農兵調練場1-1 農兵制度が生まれた背景 市旧跡「農兵調練場」で、東大和市の農兵の概略、調練場の位置関係を紹介しました。 ここでは、その農兵制度ができるまでの背景と経緯について記します。 範囲が広いので、4つに分けて整理をしてみました。 農兵設置の背景 クリックで大 異国船渡来と…
2022-02-24 19:01:56
東大和の歴史
蔵敷調練場跡(東大和市旧跡)
蔵敷調練場跡(市旧跡) 蔵敷2丁目、三本杉・山王様の北側 鳥居の前に「蔵敷調練場」の説明板がある クリックで大 指定の概容 所在地 蔵敷2丁目535番地付近 指 定 昭和55年4月1日 管理者 熊野神社 説 明 江戸末期に治安の維持や百姓一揆を鎮圧するため農兵を養成した場所で、貴…
2022-01-27 14:36:08
東大和の歴史
ひなまつり(2022年)
ひなまつり(2022年) 画像はいずれもクリックで拡大します。 2022年企画展示・「ひなまつり」が開かれます。 関連イベントは申し込み受付が2月1日からです。 コロナ禍、安全確保の上、楽しみたいです。 東大和市郷土博物館催物案内 (2022.01.27.文責・安島) &nb…
2022-01-23 11:31:17
東大和の歴史
農兵調練場1
農兵調練場1 蔵敷の「三本杉」「山王様」。 庚申塚、9小から南、芝中団地の北側になります。 こんもりとした三角地です。 地元では「三本杉」「山王様」と呼ばれる三角地 以前は塚になっていました。 クリックで大 鳥居の前に「蔵敷調練場跡」の説明板があります。 蔵敷調練場の説明板 クリ…
2022-01-15 18:41:37
東大和の歴史
よし、俺が立ち会って決めてくる 宅部下総入道
よし、俺が立ち会って決めてくる 宅部下総入道 中世、応永24年(1417)の出来事です。 丁度、上杉禅秀の乱の前後になります。 元気が良いのは我が村の先人かも? と、興味を煽る人物が浮かんできます。 「宅部下総入道」(やけべしもふさにゅうどう)です。 東…
2022-01-07 18:57:11
東大和の歴史
『狭山之栞』の「武蔵国」
『狭山之栞』の「武蔵国」 江戸時代、東大和市域内の人々は武蔵国についてどのように受けとめていたのでしょうか? 良い資料があります。 江戸時代の後ヶ谷村名主・郷土史家の杉本林志氏が『狭山之栞』(さやまのしおり)に次のように書いています。 (原文に読み仮名を入れて紹介します) 『狭山…
2021-12-31 17:33:37
東大和の歴史
明けまして御目出度う御座います。
謹賀新年 2022年元旦 クリックで大 明けまして御目出度う御座います。 様々に厳しい状況が続きますが 健康で東大和市の歴史を書いて行きたいと 願っています。 本年もよろしくお願い致します。 皆様の益々のご発展をお祈り致します。 安島喜一 window.twttr=(functi…
2021-12-30 18:13:04
東大和の歴史
明和2年(1765)六十六部供養塔 慶性院(東大和市)
明和2年(1765)六十六部供養塔 慶性院(旧地は林堂) 特徴ある六十六部供養塔が慶性院の境内にまつられています。 ・廻国したであろう行者の名前「圓入」と ・「武刕多麻郡芋窪村」と通常彫られる武州多摩郡芋窪村ではない 彫りがあります。東大和市内六十六部供養塔中でただ一つです。…
2021-12-14 11:34:26
東大和の歴史
雲性寺・大乘妙典六十六部廻国供養塔(安永6年・1777)
雲性寺・大乘妙典六十六部廻国供養塔(安永6年・1777) 雲性寺の前庭左側に 大乗妙典六十六部廻国供養塔がまつられています。 4体の石造物の一番右手前です。 雲性寺前庭石造物 クリックで大 正面 東大和市内にまつられた六十六部供養塔の中で 文字などの彫りが最も明確に見られます。 …
2021-12-11 09:04:06
東大和の歴史
六十六部廻国供養塔について3
六十六部廻国供養塔について3 国分寺と妙法蓮華経 六十六部は妙法蓮華経を各地の国分寺に納めたとされます。 その理由はどこにあるのか? 天平13年(741)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出されました。内容は各国に ・七重塔を建て ・金光明最勝王経(金光明経・僧寺)と妙法蓮…
2021-12-10 18:37:20
東大和の歴史
六十六部廻国供養塔について2
六十六部廻国供養塔について2 廻国した六十六の国 狭山霊性庵の六十六部供養塔には次のように彫られています。 狭山霊性庵にまつられる六十六部供養塔です。 クリックで大 天下泰平 天明五乙巳天 武刕多摩郡後谷村(ぶしゅうたまぐんうしろがやむら) 奉納大乘妙典六十六部日本廻国供養塔…
2021-12-08 09:53:59
東大和の歴史
六十六部廻国供養塔について(東大和市)
六十六部廻国供養塔について1(東大和市) 六十六部廻国供養塔 東大和市に伝わる六十六部供養塔のご案内です。 雲性寺 大乗妙典六十六部廻国供養塔 法華経を納め、天下太平 国土安全を願っています。クリックで大 市内の墓地や寺院の境内に 日本廻国供養塔、大乗妙典供養塔とか 六十…
2021-11-03 10:15:50
東大和の歴史
庚申塔 高木神社前 享保4年(1719)
庚申塔 高木神社前 享保4年(1719) 高木神社前に思わず足を止める庚申塔がたてられています。 享保4年(1719)、高木村の村人が揃ってまつりました。 庚申塔 享保4年(1719) クリックで大 立派な蓋が付いた方形(□)の石碑です。 容姿の揃った貴重な庚申様です。 …
2021-11-02 02:52:35
東大和の歴史
馬頭観音 高木神社前 昭和4年(1929)
馬頭観音 高木神社前 昭和4年(1929) 東大和市で最も新しい年代の馬頭観世音です。 (昭和4年・1929) 正面 正面 馬頭観世音 クリックで大 馬頭観世音の文字が彫られています。 左則面 左則面 年号と願主が彫られています。 クリックで大 昭和四年八月一日 願…
2021-11-01 02:20:26
東大和の歴史
馬頭観音 高木神社前 天保5年(1834)
馬頭観音 高木神社前 天保5年(1834)10月8日 天保5年(1834)、コレラ、飢饉、農民一揆が続いた年です。 そのような中で、旧江戸街道沿い北側にまつられました。 正面 正面 馬頭観世音(摩損) クリックで大 表面は摩損しています。 かすかに、馬頭観世音の文字(楷書)が…
2021-10-31 12:28:40
東大和の歴史
馬頭観音 高木神社前 慶応4年(1868)
馬頭観音 高木神社前 慶応4年(1868) 明治維新の年、慶応4年(1868)です。 村中の願いを込めて、馬頭様が 清戸街道、高木神社前(当時は尉殿権現・じょうどのごんげん)にまつられました。 慶応4年 馬頭観世音 クリックで大 しっかりとした「馬頭観世音」の文字が彫ら…
2021-10-29 12:04:04
東大和の歴史
馬頭観音 高木神社前 文政11年(1828)
馬頭観音 高木神社前 文政11年(1828) 高木地域を代表する馬頭観世音です。 文政11年(1828)8月吉日 旧江戸街道(現・新青梅街道)と府中道が交差する角にまつられました。 正面 馬頭観世音 台石に総村中 クリックで大 高さ108㌢ 幅41㌢ 奥行き40㌢ 多…
2021-10-24 19:08:27
東大和の歴史
比翼塚(東大和市)
比翼塚(東大和市) 高木の明楽寺墓地です。一番奥に、山形の石碑が二つ並んでいます。 明楽寺墓地奥の二つの石碑 クリックで大 地元では比翼塚と呼びます。 まつった年次 まつった人 ゆかりの村人とされます。 大きさ 高さ地上約70センチ 同50センチ 石質 等は調査…
2021-10-18 20:07:13
東大和の歴史
改修が終わった変電所跡1
改修が終わった変電所跡1 長い間、覆いに包まれて、何をしているんだろうと話題になっていた変電所跡。 平成29年度(2017)・現地調査から、令和3年度(2021)・工事完了まで、3年越しの改修工事が完了しました。 工事中の変電所跡 クリックで大 工事費の一部にと、ふるさと納…
2021-10-18 19:17:04
東大和の歴史
改修が終わった変電所跡2
改修が終わった変電所跡2 二階への階段部分です。 気になっていた階段と手すり、室内の壁に貫通した弾痕跡に向かいます。 二階への階段 クリックで大 弾痕跡は2箇所あります。手前の手すり、上部の手すりと壁面です。 改修結果は実に巧くみに処理されていました。 ・元の階段の上にガ…
2021-10-08 19:24:26
東大和の歴史
学童疎開2
学童疎開2 親元を離れての小学校5年生の女子生徒です。生活は厳しい一面があったようです。お隣の村山村の例です。 「宿舎であった寺の本堂は墓地に近く、夜間洗面所に行くのに恐怖を覚えた故もあるのか、寝小便の常習、熱を出す者、不衛生な環境が招いた出来物や蚤(のみ)・虱(しらみ)の発…
2021-10-08 19:04:34
東大和の歴史
学童疎開1
学童疎開1 小学校5年生が親元を離れて 昭和19年(1944)の事です。太平洋戦争も本土決戦が叫ばれるようになってきました。 学童疎開が行われました。戦火を避けるため、東京の小学校の児童が親元を離れて集団で安全な場所に移って生活する仕組みです。 実際には、「大都市における児…
2021-09-28 19:04:32
東大和の歴史
都立東大和南公園に秋が
9月終わりの都立東大和南公園 親子の合唱が低く高く 旧変電所跡 クリックで大 一部のハナミズキが次の季節を! クリックで大 付近にはどんぐりがいっぱい クリックで大 滑り台ではしゃぐ幼子の声が、空に抜けます。 (2021.09.28.) つぶやき window.twttr=(f…
2021-09-25 13:30:56
東大和の歴史
旧吉岡住宅 秋の公開 2021年 クリックで大 クリックで大 博物館催し物案内 window.twttr=(funct…
2021-09-20 10:04:26
東大和の歴史
慶性門
慶性門 村山貯水池中堰堤の北側、小高く張り出したところに門が保存されています。 クリックで大 クリックで大 慶性門です。貯水池が出来る前、石川の里にあった慶性院の山門でした。この地(東京都東大和市多摩湖3丁目)にあるのは、次の経緯によります。 ・慶性院は村山貯水池の建設のため…
2021-09-17 13:53:25
東大和の歴史
狭山湖駅伝競走大会
狭山湖駅伝競走大会 村山貯水池周辺がスポーツの話題で大わきにわきました。 狭山湖駅伝競走大会です。 その歴史を語る貴重なポールが残されました。 狭山湖駅伝出発・決勝の文字 クリックで大 近寄ってみないと読み取れませんが 「狭山湖駅伝出発・決勝」 と記されています。 狭山…
2021-09-13 10:28:09
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 現代 昭和時代3
昭和20年(1945)~昭和29年(1954) 壊滅から立ち上がり 昭和20年(1945)4月、日立航空機(株)の大きな工場が爆撃で破壊されました。 ・壊滅状況に、工場関係者も村人も、ぼう然、自失したと伝わります。 ・8月15日終戦。 ・9月初旬、工場に米兵士約40人が進駐して来…
2021-09-10 13:32:26
東大和の歴史
日立だんなと日立乞食
日立だんなと日立乞食 昭和20年(1945)8月、第二次世界大戦(太平洋戦争)が終わりました。 それから1~2年の間の話です。 当時、東大和市は大和村で、村人達の生活は ・狭山丘陵の根通りを本拠とする本村(ほんそん)と ・玉川上水、野火止用水際に位置する南まち(みなみまち)に分か…
2021-09-07 13:51:10
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 現代 昭和時代2
大まかな歴史の流れ 現代 昭和時代2 東京ガス電気工業(株)の立地 大和村が経済的疲弊から立ち直り、懸命な再建策を模索していたとき、村の南端に工場立地の話題が浮上しました。 ほとんど桑畑の場所に工場建設の動きが起こった クリックで大 昭和12(1937)から昭和13年(1…
2021-09-06 14:14:01
東大和の歴史
吉岡堅二素描展 2021年
吉岡堅二素描展 2021年 コロナ禍ですが、安全対策を十分にとって、お揃いで越し下さい。 吉岡堅二素描展 2021年秋 クリックで大 郷土博物館催物案内 window.twttr=(function(d,s,id){var js,fjs=d.getElementsByTagNa…
2021-09-06 14:03:25
東大和の歴史
プラネタリウム2021秋番組
プラネタリウム2021秋番組 安全対策を充分にとってお揃いでお越し下さい。 プラネタリウム 2021秋番組 クリックで大 郷土博物館催物案内 window.twttr=(function(d,s,id){var js,fjs=d.getElementsByTagName(s)[…
2021-08-26 14:09:57
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 現代 昭和時代1
大まかな歴史の流れ 現代 昭和時代1 大正から昭和へ 第一次世界大戦、政党内閣、労働運動、新たな文学の芽生えなど、 時には大正デモクラシーと呼ばれる大正時代、東大和市域の村々では、 ・村山貯水池の建設、住民大会、受け入れ、移転と推移し ・162戸の古代からの集落が湖底に沈み、…
2021-08-15 08:56:20
東大和の歴史
略年譜 現代3 昭和時代3
略年譜 現代3 昭和時代3 昭和46年・1971~昭和63年・1988 青色の部分はクリックすると記事になります。 現在作業中です。削除、加入、訂正が続きます。ご了承下さるようお願いします。 1971(昭和46)年 ・2月、東大和市社会福祉協議会設立。 ・四小校歌…
2021-08-13 19:02:01
東大和の歴史
略年譜 現代3 昭和時代2
略年譜 現代3 昭和時代2 昭和30年・1955~昭和45年・1970 青色の部分はクリックすると記事になります。 現在作業中です。削除、加入、訂正が続きます。ご了承下さるようお願いします。 1955年(昭和30) ・1月、最初の成人式行われる。 ・…
2021-08-12 18:20:51
東大和の歴史
略年譜 現代3 昭和時代1
略年譜 現代3 昭和時代1 昭和元年・1926~昭和29年・1954 青色の部分はクリックすると記事になります。 現在作業中です。削除、加入、訂正が続きます。ご了承下さるようお願いします。 1926年(昭和元) ・1926年(大正15)12月25日、大正天皇の崩…
2021-08-08 18:58:41
東大和の歴史
略年譜 現代2 大正時代
略年譜 現代2 大正時代 青色の部分はクリックすると記事になります。 ・1912年(大正元年・明治45年)7月30日、大正と改元。 ・1913年(大正2)9月7日、村山貯水池建設について内閣の認可。 ・大正2年度~大正8年度(1913~1919)東京市上水道拡張…
2021-08-06 18:31:29
東大和の歴史
略年譜 現代 1明治時代
略年譜 現代 1明治時代 青色の部分はクリックすると記事になります。 画像を入れると年譜が見にくくなるので省きました。 記事の方でご覧下さるようお願い致します。 1868年(慶応4)6月19日、武蔵国に知県事が置かれる。 芋窪村(天領分)、蔵敷村、奈良橋村、後ヶ谷村、宅部村、…
2021-07-20 19:52:24
東大和の歴史
プラネタリュウムでチコちゃんに叱られる
プラネタリュウムでチコちゃんに叱られる 皆さんおそろいでお出かけ下さい。 2021年夏のプラネタリュウム番組です。 クリックで大 クリックで大 東大和市立郷土博物館催物案内 window.twttr=(functio…
2021-07-10 12:09:39
東大和の歴史
享保11年(1726)六十六部供養塔2 清水観音堂前左端
享保11年(1726)六十六部供養塔2 清水観音堂前左端 清水観音堂にまつられる「大乘妙典六十六部日本回国供養塔」2を紹介します。 以前は、木の間に隠れて見えませんでしたが、最近は全容を拝することができます。 六十六部供養塔 クリックで大 梵字 奉納大乘妙典六十六部日本回国供養塔…
2021-07-08 14:18:20
東大和の歴史
享保9年(1724)六十六部供養塔 清水観音堂前
享保9年(1724)六十六部供養塔 清水観音堂前 清水観音堂の道路側に重厚な塔がまつられています。名前が長い、 大乗妙典六十六部日本廻国供養塔(だいじょうみょうてんろくじゅうろくぶ)です。 大乗妙典六十六部日本廻国供養塔 クリックで大 道路側に四つの碑があります。その中で、…
2021-07-06 19:14:22
東大和の歴史
清水観音堂の庚申塔(東大和市)
清水観音堂の庚申塔 清水観音堂東側敷地内に二つの庚申塔がまつられています。 形が崩れ、銘は読めません。かってまつられていた地を調べていますが、不明です。 塔は静かですが、厚い信仰が寄せられていた雰囲気を醸しています。 現在の姿を紹介します。 清水観音堂東側敷地 クリックで…
2021-07-05 20:25:19
東大和の歴史
砂の橋の石橋供養塔(東大和市指定文化財・郷土資料)
砂の橋の石橋供養塔(東大和市指定文化財・郷土資料) 清水観音堂境内本堂北側に砂の橋の石橋供養塔がまつられています。 東大和市・指定文化財・郷土資料です。 砂の橋石橋供養塔 クリックで大 文化財としての指定理由は次の通りです。 清水砂の橋(すなのはし)の石橋供養塔 所在 東大…
2021-07-02 14:40:11
東大和の歴史
馬頭観音 清水観音堂2
馬頭観音 清水観音堂2 清水観音堂の敷地内東側に背の高い馬頭観音がまつられています。 東大和市内で2番目に背丈の高い馬頭様です。 馬頭観世音菩薩 クリックで大 すっきりした立ち姿が道路側から直接見えないのが残念です。 一度、堂の正面を通り抜けて、東側の空地に出ます。 …
2021-06-30 19:54:28
東大和の歴史
馬頭観音 清水観音堂1
馬頭観音 清水観音堂1 清水観音堂、道路側にまつられる馬頭観音様 クリックで大 清水観音堂、道路側にまつられる馬頭観音様です。 清水村の人々が、江戸時代末にまつりました。 清水観音堂 馬頭観音は道側から正面が拝せます。クリックで大 清水観音堂入り口、観音堂改修記念碑の左側にまつら…
2021-06-28 11:21:07
東大和の歴史
清水観音堂の石造物
清水観音堂の石造物 狭山三十三観音第十五番札所・清水観音堂(地元では橋場の観音堂、清水一丁目755番地)の敷地内にまつられている石造物を紹介します。 各石造物の詳細については、それぞれクリックしてご覧下さい。 狭山三十三観音第十五番札所・清水観音堂全景 クリックで大 旧清水…
2021-06-21 11:19:17
東大和の歴史
小川仮郷学校(明治初年)3
小川仮郷学校(明治初年)3 小川仮郷学校は小川村の小川寺(しょうせんじ)に設けられました。小川村開発の祖・小川九郎兵衛の墓塔をまつるお寺です。 小川仮郷学校が設立された小川寺 クリックで大 開校式 明治4年(1871)8月1日、開校式が行われました。小川村組合を構成する村の代…
2021-06-20 11:37:46
東大和の歴史
小川仮郷学校(明治初年)2
小川仮郷学校(明治初年)2 明治4年(1871)4月のことです。 「こりゃー、あんだや」 「小人閑居して不善を為す」 「暇になると、ばくち打ちとつるんで、ずる賢くなる」 「だあから?」 「学校つくって、良くすんだと」 「俺れーらのこと云ってんだんべ」 「ひでえ、話…
2021-06-20 11:20:36
東大和の歴史
小川仮郷学校(明治初年)1
小川仮郷学校(明治初年)1 「おがわ かり ごうがっこう」と読みます。 聞き慣れない言葉です。 明治初年、現在で云う公立小学校です。 小平市小川の小川寺(しょうせんじ)に設けられました。 小川寺本堂 クリックで大 明治になって4年目(1871年)、村人にも、維新の方向が…
2021-05-20 14:36:00
東大和の歴史
5近世・江戸時代3(東大和市の歴史・略年譜)
5近世(江戸時代3) ・1853(嘉永6年)6月3日、ペリー来航。 ・6月19日、江川太郎左衛門(東大和地域を治めた代官)勘定吟味役格に任命される。 海防会議に参画。江戸湾への台場建設決まる。 ・7月9日、台場築造のためケヤキ、松材を運び出す。 ・9月12日、御林から松…
2021-05-19 11:35:07
東大和の歴史
5近世・江戸時代2(東大和市の歴史・略年譜)
5近世(江戸時代2) ・1687(貞享4年)、第五代将軍徳川綱吉、生類憐れみの令。(『里正日誌』1p182) 鷹狩り、休止。 蔵敷、内野家に伝えられる「生類憐れみ令」。「申し渡し」になっている。クリックで大 ・1702(元禄15年)、たばこ禁令。(本田への栽培禁止・『里正日誌…
2021-05-16 19:34:39
東大和の歴史
5近世・江戸時代1(東大和市の歴史・略年譜)
5近世・江戸時代1(東大和市の歴史・略年譜) ・1591(天正19年)、徳川家康が関東に入府。 ・直後に狭山丘陵周辺に直属の家臣が配属されてきた。 ・領地の配分による村切りによって 芋窪、奈良橋、高木、後ヶ谷、清水村の5村が成立。 散在していた集落が集められて村の名前が付…
2021-05-12 18:27:37
東大和の歴史
2先史(東大和市の歴史・略年譜)
2先史 ・2万年~1万年前(旧石器時代) 2万年前~1万年前です。東大和市域に、人が活動し始めました。 ・旧石器人です。 ・時々、富士山の噴火の灰が降っている頃です。 ・鋭い石器で狭山丘陵や南に広がる原野で狩りをして、木の実や植物をとって、 ・丘陵の林…
2021-05-10 14:22:21
東大和の歴史
地質(東大和市略年譜)
地質(東大和市略年譜) 東大和の歴史をおおまかな年表にしました。 ・200~50万年前、東大和市は海の中 ・東大和市は狭山丘陵と武蔵野台地で出来ている。 狭山丘陵と武蔵野台地 クリックで大 西側に奥多摩の山々、北側に狭山丘陵、東側は東京湾につながる。 クリックで大 ・現在の姿…
2021-05-08 11:24:43
東大和の歴史
4中世(東大和市に関する出来事)
4中世(東大和市に関する出来事) 1063(康平6) ・御霊神社の創建 村山貯水池に沈んだ宅部(内堀)に、鎌倉権五郎景正の家臣寺島小重郎が創建したと伝えられる。(多摩湖の歴史p205) 現在は、貯水池移転により狭山神社に合祀。 御霊神社旧地と配置図 クリックで大 1083(永…
2021-05-04 18:53:16
東大和の歴史
くずっぱはきと狭山貯水池愛護会
くずっぱはきと狭山貯水池愛護会 くずっぱはきは村山貯水池と大きな関係を持ちました。 村山貯水池が出来て、貯水池に面する山林は保水林になりました。 村山下貯水池、奥に中堰堤 周辺の山地は主に雑木林で豊富な落ち葉が集められた。クリックで大 そのため、落ち葉の利用は制限されました…
2021-05-03 14:05:55
東大和の歴史
くずっぱ
くずっぱ 5月、新緑に溢れる狭山丘陵です。 新緑の狭山丘陵 クリックで大 12月になると、すっかり紅葉が進み、雑木林は一面に落ち葉が敷き詰められます。 小径をかさこそとひそかな音をたてて歩み、幸せなひとときに浸ります。 一面に敷き詰められる落ち葉 クリックで大 この落ち葉…
2021-04-30 11:37:03
東大和の歴史
ねずみ沢のかっぱ
ねずみ沢のかっぱ 「とおい昔、貯水池ができるずっと前のことだよ。蔵敷のなかに、ねずみ沢という池があった。そこは森のように木が茂っていて、うす暗く、水は氷のように冷たかった。しかし、子どもたちはよく遊びに行ったものだ。 蔵敷の集落からねずみ沢への道 クリックで大 夏になると泳い…
2021-04-19 11:47:45
東大和の歴史
天明の打ち毀し(武州村山騒動)4(騒動の背景)
天明の打ち毀し(武州村山騒動)4(騒動の背景) 「良くもやってくれたよな!」 「ありがてえもんだ」 「これで、ちったー薬がきいたんべ」 「だけんど、これから良くなんべーか?」 「そうよなー」 村の人々は複雑な気持ちではなかったでしょうか。 1打ち毀にあった家々 打ち毀しにあった…
2021-04-17 19:02:43
東大和の歴史
天明の打ち毀し(武州村山騒動)3(騒動の後)
天明の打ち毀し(武州村山騒動)3(騒動の後) 「行ってみたけど、ひでえ(ひどい)もんだぜ」 「家はぶっこされて」 「稗(ひえ)や粟(あわ)が庭におっぴろげられてんだ」 「おれーらが苦労してとった(収穫)にな」 「値段のつり上げ根性が悪いのよ」 「質物も踏んじゃかれて、…
2021-04-16 17:58:10
東大和の歴史
天明の打ち毀し(武州村山騒動)2打ち毀し
天明の打ち毀し(武州村山騒動)2打ち毀し 「ほんこ(本当)に、やんだんべか」 「物持ちは、隠し始めたとよ」 「それじゃ済むめー」 「どこがやられんだか気が気じゃあんめー」 「時に、おら方じゃ、誰が行ったただや?」 「そりゃー、ひっぱたかれても、云えねえことよ」 2打ち…
2021-04-14 18:19:33
東大和の歴史
天明の打ち毀し(武州村山騒動)1
天明の打ち毀し(武州村山騒動)1 穏やかな狭山丘陵の麓に、打ち毀しの事件がありました。 ・天明4年(1784)です。 ・天候不順と凶作が続く中、 ・穀物の買い占めや売り惜しみをし、油商、質屋などをしていた富豪層を ・たまりかねた村人たちが立ち上がった事件です。 天明の打ち毀し…
2021-03-21 13:39:20
東大和の歴史
3古代(略年譜)
3古代(略年譜) 古墳時代(3世紀中頃~7世紀後半) 東大和市内に古墳と確定される塚はない。下図のように、遠くは毛野、北武蔵、南武蔵の間に位置し、近くに所沢古墳群がある。 古墳群 クリックで大 ・狭山丘陵の刻んだ谷ッに水田を営む集団が定着。6世紀前半から7世紀に…
2021-03-03 09:26:55
東大和の歴史
東大和市の地名5(江戸時代初期)
東大和市の地名5(江戸時代初期) 東大和市の江戸時代初期の地名は 「すな」「やくしの前」「竹山」「けかちがわ」・・・ のように比較的狭い範囲を具体的に表します。地名の面白さが凝縮しているようです。 しかし、全てが一覧できる状況にはなく、年貢帳から辿った一部を紹介します。 …
2021-02-27 19:17:06
東大和の歴史
東大和市の地名4(野火止用水まで)
東大和市の地名4(野火止用水まで) 東大和市域の村々は、1670年代になると、下図のように、南台、新街道、大久保、向原、山神、下仲原等の地域を開墾し、野火止用水周辺にその動きを進めてきました。 青梅道、野火止用水付近位置図 クリックで大 寛文9年(1669)、高木村の検地帳…
2021-02-23 13:29:22
東大和の歴史
東大和市の地名3(江戸街道から原まで2)
東大和市の地名3(江戸街道から原まで2) 1660年~70年代になると、ほぼ江戸街道の辺りにまで、開墾が進んできました。 高木、後ヶ谷、清水村の人々は南に広がる広大な原野を前に、心新たに開墾の意志を固めたと想像します。 芋窪、蔵敷、奈良橋村の場合は、大きな起伏や窪地がありま…
2021-02-21 16:40:16
東大和の歴史
東大和市の地名(3江戸街道から原 1)
東大和市の地名(3江戸街道から原 1) 1谷地を望む台地縁辺 狭山丘陵の懐に生活の基盤を置いた村人達は、まず、南の砂の川(空堀川)を目指して開墾を始めました。 クリックで大 麓の村から、砂の川へは下りが続き、川を越えてまたのぼります。 芋窪砂の川(空堀川)付近 クリックで大…
2021-02-07 18:35:57
東大和の歴史
東大和市の地名(2江戸街道まで)
東大和市の地名(2江戸街道まで) 「さー、始めんべえや!」 「よーし、やんぞー」 「負けちゃー、いられねえーぞ」 承応2年(1653)に玉川上水、そして、承応4年(1655)に野火止用水が開削されました。 その分岐点が玉川上水駅の近くに設けられました。その翌年です。 分岐点…
2021-02-05 10:05:00
東大和の歴史
東大和市の地名(1地名のあらまし)
東大和市の地名(1地名のあらまし) 東大和市芋窪にある豊鹿島神社の本殿の前、古老が集まっています。 「おれーらの村の名前は、どうやってつけたんだや?」 「芋と窪だぁから、芋が、窪(くぼ)い畑で、うんととれたんだべ」 「そうじゃねえ、おらが爺の話だと“井の窪”で、水がたん…
2021-01-15 11:49:18
東大和の歴史
センダンとムクドリ(東京都立東大和南公園)
センダンとムクドリ(東京都立東大和南公園) 東京都立東大和南公園の東南隅から公園に入ったときです。 頭に何かつぶつぶしたものが落ちてきました。 「なんかおっこってきた」 「私にもぶつかった」 何だろうと探しました。 センダンの実 (クリックで大) 沢山の…
2020-12-02 18:51:43
東大和の歴史
さあ、畑をつくるぞ!!
さあ、畑をつくるぞ!! 「すげーなー」 「多摩川の水だんべ・・・」 クリックで大 野火止用水に水が流れました。承応4年(1655)3月20日です。 茅(かや)や茨(いばら)が背中より高い原野の中 たった一筋の水路を熱く追います。 「そうだ、ここまで、畑にすんべえや」 「たし…
2020-11-20 19:50:53
東大和の歴史
野火止用水が引かれるぞ!!
野火止(のびどめ)用水が引かれるぞ!! それ!新しい畑の開発だ!! 東大和の村々に慌ただしい空気が広がります。 モニュメント・用水工夫 クリックで大 玉川上水・野火止用水が出来る 「原の南っかたで、江戸へと上水がつくられるとよ」 「それと、そっから別の用水が分かれるそうだぞ…
2020-10-29 10:01:39
東大和の歴史
羽村堰の工事に入札!(寛政3年・1791)
羽村堰の工事に入札!(寛政3年・1791) 江戸時代です。 「玉川上水羽村の堰が台風でやられた、工事をするので、入札に参加しないか」 との回覧が村々に回りました。 最近、士農工商の身分制が見直されています。それにしても、狭山丘陵周辺の農村の百姓には、農業中心的な枠があ…
2020-10-19 01:05:20
東大和の歴史
炭の買い出し途中で争い(寛政3年・1791 蔵敷村)
炭の買い出し途中で争い(寛政3年・1791 蔵敷村) 駄賃稼ぎでしょう。炭の買い出しの途中で喧嘩になって、幕府の検視を求める事件が起こりました。 寛政3年(1791)1月です。蔵敷の村人が青梅まで炭を買い出しに行きます。村山道を通って、途中の新町で喧嘩になりました。その騒動…
2020-10-17 19:23:18
東大和の歴史
写真でみる東大和展(東大和市郷土博物館)
写真でみる東大和展(東大和市郷土博物館) 市制50周年を迎え、東大和市郷土博物館で「写真でみる東大和」の展示をしています。 さっそく、行ってみました。 1階ロビーの様子 クリックで大 展示は1階ロビーと2階の廊下に分かれています。 東大和が市になった、昭和45年(19…
2020-10-13 10:51:46
東大和の歴史
髪は藁で束ねよ、雨具は蓑笠を用いよ 天明8年(1788)のお触れ
髪は藁で束ねよ、雨具は蓑笠を用いよ 天明8年(1788)のお触れ 天明8年(1788)、天明の大飢饉の時です。東大和市域の村々に 「髪は藁で結え!」 との達しが来ました。 コロナの中での一斉休業が自粛か命令かで問題になる今では考えられません。 さらに、このお触れの…
2020-10-11 11:48:54
東大和の歴史
日立航空機工業(株)工場跡地の平和利用、多様な業種の立地
日立航空機工業(株)工場跡地の平和利用、多様な業種の立地 第二次世界大戦中、主に軍用機のエンジンを作っていた日立航空機工業(株)の工場群は、軍需産業の標的としてアメリカ軍の爆撃を受け、焼け野原となりました。戦災から解き放された村は工場跡地の平和利用、住民の雇用を期し、新たな工場…
2020-10-05 19:34:22
東大和の歴史
文久のコロリ
文久のコロリ 令和の時代2年目(2020)、世界中でコロナ問題の対応に迫られます。江戸時代、文久2年(1862)、狭山丘陵周辺の村人は「コロリ」問題で悩まされました。この病に罹るとコロリと亡くなってしまうので「コロリ」と呼ばれました。どのような状況だったのか武蔵村山市に伝わる『…
2020-10-02 14:19:03
東大和の歴史
農間稼ぎ(のうま、のうかんかせぎ)
農間稼ぎ(のうま、のうかんかせぎ) 江戸時代、東大和の村々では農業の合間に盛んに「稼ぎ」が行われていました。 ・男は樵(きこり)や炭焼をし、 ・時には青梅や八王子に薪や炭を仕入れに行って ・女は木綿の糸撚や機織りをして ・江戸ならびに最寄りの市場へ出す …
2020-09-25 19:11:40
東大和の歴史
墓地の移転とミイラ
墓地の移転とミイラ 大正4年(1915)、村山貯水池の湖底に沈む家々は移転を開始しました。 何しろ、狭山丘陵の峰を一峰超えての移転です。解体した家屋の材料はもちろん家財道具一式を運びます。 鉄道はありません。トラックもめったに使えません。ほとんどが人力と牛の引く荷車に乗…
2020-09-01 18:08:11
東大和の歴史
最初の公民館「東大和市立公民館」(後に南街公民館)
最初の公民館「東大和市立公民館」(後に南街公民館) 東大和市の最初の公民館は、昭和46年(1971)6月15日に開館しました。 「東大和市立公民館」(南街六丁目・老人福祉館の隣)です。 最初の東大和市立公民館 10年間資金を積み立てて実現した。 クリックで大 待ち望まれ…
2020-08-31 14:44:00
東大和の歴史
東大和市立公民館の歴史
東大和市立公民館の歴史 東大和市の公民館の大まかな歴史です。 教育委員会は中央公民館と地区公民館あわせて、5館構想を定めました。 新堀地区に「新堀地区会館」が建設され、公民館事業が行われることになりました。 中央と地区あわせて6館を実に32年間かけて実現しています。…
2020-08-21 11:53:52
東大和の歴史
夢と消えた武州鉄道
夢と消えた武州鉄道 昭和34年(1959) ルートは確定しませんが、東大和市のほぼ真ん中を横に貫いて通る鉄道の計画がありました。 東京の三鷹市・吉祥寺から出発して、埼玉県の秩父市・御花畑に達する武州鉄道です。 吉祥寺を起点として、小金井市ー小平市ー東大和市ー武蔵村山市ー…
2020-08-17 19:09:52
東大和の歴史
大和村役場の新築、奈良橋への移転
大和村役場の新築、奈良橋への移転 東大和市はこれまで村役場、町役場、市役所と次のように移動してきました。 ①高木神社東側(番組会所、連合戸長役場、大和村役場) ②奈良橋(現在の奈良橋市民会館 大和村役場、大和町役場、東大和市役所) ③現在の市役所(市役所) …
2020-08-16 13:45:29
東大和の歴史
昭和10年代の大和村
昭和10年代の大和村 昭和2年(1927)、村山貯水池が完成しました。丁度、金融恐慌にぶつかり、引き続いて、昭和5年(1930)世界恐慌が訪れます。 大和村は、旧村の移転という痛手を被り、ようよう新地域に落ち着いた時でした。 クリックで大 その頃の村の姿をよく表す文書があ…
2020-08-15 11:04:37
東大和の歴史
樫の木の碑
樫の木の碑 都立東大和南公園グラウンド南西角の林の中に、「樫(かし)の木の碑」があります。 あまり目立たないので、多くの人が見過ごしてかわいそうです。 樫の木の碑があるところ 都立東大和南公園のグラウンドの南西角 右側を直進すると公園事務所 左側を直進すると変電所跡、市民体育…
2020-08-15 11:04:37
東大和の歴史
樫の木の碑
樫の木の碑 都立東大和南公園グラウンド南西角の林の中に、「樫(かし)の木の碑」があります。 あまり目立たないので、多くの人が見過ごしてかわいそうです。 樫の木の碑があるところ 都立東大和南公園のグラウンドの南西角 右側を直進すると公園事務所 左側を直進すると変電所跡、市民…
2020-08-14 09:55:53
東大和の歴史
井戸の水がなくなり 米軍大和基地の給水車から給水
井戸の水がなくなり 米軍大和基地の給水車から給水 昭和37年(1962)3月、地下水の水位、流路の関係でしょうか? 町のあちこちで、井戸の水がなくなり、飲み水も汲み上げることができなくなりました。 「村山貯水池があるのに、その地元で水がないとは!」 と皮…
2020-08-13 12:10:58
東大和の歴史
米軍大和基地との交流
米軍大和基地との交流 昭和31年(1956)2月24日、米軍大和基地は開設されました。 町内では基地開設に至る間は反対運動が強まりました。 それだけに、開設後は町民と米軍基地関係者の間が円滑で友好関係が保たれることに留意されたようです。 その状況を昭和33年(195…
2020-08-12 19:13:36
東大和の歴史
大和町日米連絡協議会
大和町日米連絡協議会 米軍大和基地正門 米軍大和基地が開設(昭和31・1956年2月24日正式開設)される事が決まりました。 町の人々は、米兵と地域の関係、基地の周りに、バーやダンス場などができ、どうなるのかと心配しました。 その対策は様々に検討されたと推定します。 …
2020-06-15 10:02:57
東大和の歴史
砲台用ケヤキ運搬のため道普請をせよ
砲台用ケヤキ運搬のため道普請をせよ ーペリーが去った直後の江戸湾の警備と村ー 幕末の日本を大きく変えたペリー来航です。嘉永6年(1853) ・6月3日、真っ黒な船体に蒸気を吹き上げて江戸湾に姿を現し ・6月9日、久里浜に上陸、大統領親書の受け渡しが行われ ・6月10日…
2020-06-08 15:31:39
東大和の歴史
黒船来航と村(嘉永6年)
黒船来航と村(嘉永6年) 泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん 蒸気船) たった四はいで夜も寝られず 黒船来航を機に江戸市中で、はやったという川柳です。上喜撰はお茶で、4はいと4隻がかけられて、当時の皮肉な状況を思い起こさせます。 嘉永6年(1853)6月3日で…
2020-06-05 19:19:54
東大和の歴史
蔵敷太子堂跡 (東大和市指定文化財 市史跡)
蔵敷太子堂跡 (東大和市指定文化財 市史跡) 蔵敷に太子堂跡があります。村人と共に周辺の職人集団から信仰された聖徳太子の像をまつった堂です。 江戸時代には寺子屋が営まれ、明治初年、村の最初の小学校となりました。 狭山丘陵の裾野を縫うように走る主要街道・村山道(現青梅街道…
2020-06-01 10:50:09
東大和の歴史
石橋供養塔 清水本村橋 (東京都東大和市 指定文化財 郷土資料)
石橋供養塔 清水本村橋 (東京都東大和市 指定文化財 郷土資料) 清水観音堂の境内に入ると、堂の正面右側に立派な文字で彫られた石橋供養塔があります。 地元の方々からは「本村橋の供養塔」と呼ばれます。 清水本村橋の石橋供養塔 クリックで大 所在 東大和市清水一丁目 指定…
2020-05-29 04:53:51
東大和の歴史
名号塔婆(東大和市指定文化財 郷土資料)
名号塔婆(東大和市指定文化財 郷土資料) 三光院の南側墓地に重厚な碑があります。 表面は風化して文字等はほとんど見分けられませんが、ズッシリと立つ姿に引き寄せられます。 東大和市指定文化財 郷土資料の「名号塔婆」(みょうごうとうば)です。 東大和市指定文化財 郷土資料 …
2020-05-22 02:45:30
東大和の歴史
狭山の栞紙型および挿絵判(東大和市指定文化財 市重宝)
狭山の栞紙型および挿絵判(東大和市指定文化財 市重宝) 東大和市に独特の指定文化財があります。 出版物(書籍)を再販印刷するときに必要となる「紙型」(しけい)と「挿絵判」(さしえはん)です。 郷土史に欠かせない『狭山之栞』の出版に関わります。 所在地 東大和市狭山 …
2020-05-19 16:32:24
東大和の歴史
雲性寺観音堂(狭山三十三観音十八番札所・東大和市指定文化財 旧跡)
雲性寺観音堂(狭山三十三観音十八番札所・東大和市指定文化財 旧跡) 第十七番・狭山の霊性庵から円乗院の前を通り村山道に出て西に進みます。旧道は奈良橋川に架かる日月橋を渡ってすぐの小径を右に入ります。よくも残されたと驚きながら、曲がりくねって辿ると、狭山丘陵の峰に木々が茂り、雲性…
2020-05-17 10:13:47
東大和の歴史
はやし堂(林堂)狭山三十三観音霊場十九番札所(東大和市指定文化財 旧跡)
はやし堂(林堂) 狭山三十三観音霊場十九番札所(東大和市指定文化財 市旧跡) 十九番札所・はやし堂はこのたび整備されてモダンになりました。次第に札所の堂が姿を消す中で本当に嬉しいです。 位置はかってと同じ敷地内ですが、芋窪東自治会集会所の右側に移りました。 新築なった…
2020-05-11 14:31:53
東大和の歴史
慶性院の水天像(東大和市指定文化財 重宝)
慶性院の水天像(東大和市指定文化財 重宝) 所在地 東大和市芋窪六丁目1352番地 慶性院 東山門入って右側 東大和市重宝 指定 昭和58年3月1日 指定理由 十二天の一つ、水天をあらわした石造物は全国でもきわめて少なく、都内では3基、市内では唯一であり、貴重である。江戸…
2020-05-08 18:54:43
東大和の歴史
豊鹿島神社の獅子頭 市重宝
豊鹿島神社の獅子頭 市重宝 種 別 市重宝 所在地 芋窪一丁目2067番地 豊鹿島神社社殿内 指定年月日 昭和58年(1983)3月1日 指定理由 市内で獅子舞が奉納されていたのは、高木神社と豊鹿島神社だけであったと思われる。獅子頭は江戸時代後期の作と思われるが明…
2020-05-06 11:14:38
東大和の歴史
内野文庫建設の記(『里正日誌』東大和市)
内野文庫建設の記(『里正日誌』) 東大和市蔵敷、内野家の一隅に瀟洒な倉があります。「内野文庫」と呼ばれます。中には ・『里正日誌』(蔵敷村で長い間名主、村長を務めた内野氏が代々にわたり記録を残した歴史資料) ・江戸時代から昭和に至る古文書 ・先史時代の土器、中世の板碑、各…
2020-05-05 18:22:58
東大和の歴史
里正日誌 東大和市指定文化財 市重宝
里正日誌 東大和市指定文化財 市重宝 東大和市の歴史を辿る上で欠かせない貴重な資料に『里正日誌』があります。長い間蔵敷村の名主、村長、教育長、神奈川県議会議員、大和村村議会議員を務めた内野家に伝わる記録です。市は文化財に指定し、市の宝としています。 種 別 市重宝 所在地 …
2020-05-02 12:08:16
東大和の歴史
旧住吉神社と御嶽神社(東大和市芋窪)
旧住吉神社と御嶽神社(東大和市芋窪) かって、芋窪・四ッ街道の路地の奥に住吉神社と御嶽神社がまつられていました。 大正年間、村山貯水池の建設が行われたとき、豊鹿島神社に合祀する話が出たそうです。しかし、石川の里の人々の強い意志で、村人と共に芋窪四丁目のこの地に移転しました。…
2020-04-26 19:33:43
東大和の歴史
天王様の石碑(東大和市芋窪)
天王様の石碑(東大和市芋窪) 天王様の境内に三つの石碑があります。いずれも大正の初め村山貯水池建設のため、湖底に沈んだ石川の里から芋窪四丁目にうつりました。令和になり、都市計画道路・東大和武蔵村山線がつくられることから、再び、社殿とともに現在地にうつりました。新しい社殿の左側に…
2020-04-22 18:31:33
東大和の歴史
芋窪の天王様の神々(東大和市)
芋窪の天王様の神々(東大和市) 天王様の境内 クリックで大 昭和の30年代初め、『大和町史』の編纂が進められていたときです。現在の芋窪の天王様は、住吉・八雲神社と呼ばれていました。でも、古老は 「名前はそうかも知んねえけんど、オレーラ(俺ら)には天王様よ」 といい切って、 …
2020-04-16 17:51:21
東大和の歴史
八坂神社の記録(野口の天王様 東村山市)
八坂神社の記録(野口の天王様 東村山市) 所在地 東村山市栄町3-35-1 祭神 素盞嗚命(すさのうのみこと)(牛頭天王) 由緒 創建 弘安元年(1278)から間もないころか、または国宝正福寺千体地蔵堂の創建された応永14年(1407)の頃、 臨済宗正福寺が別当…
2020-04-15 19:39:23
東大和の歴史
八坂神社(武蔵野牛頭天王 野口の天王様 東村山市)
八坂神社(武蔵野牛頭天王 野口の天王様 東村山市) 所在地 東村山市栄町3-35-1 祭神 素盞嗚命(すさのうのみこと)(牛頭天王) 由緒 創建 弘安元年(1278)から間もないころか、または国宝正福寺千体地蔵堂の創建された応永14年(1407)の頃、 臨済宗正…
2020-04-05 14:13:56
東大和の歴史
須賀神社奥の院(岸の天王様・奥社 武蔵村山市)
須賀神社奥の院(岸の天王様・奥社 武蔵村山市) 須賀神社は奥の院から始まりました。悪病鎮護を願い狭山丘陵の峯の杉と雑木の林にこんもりと包まれてまつられています。かって、東大和市芋窪・石川の里にまつられた天王様もこうであったのだろうと思い、深く頭を垂れて手を合わせます。創建は不明…
2020-04-04 11:19:16
東大和の歴史
須賀神社(岸の天王様 武蔵村山市)
須賀神社(岸の天王様 武蔵村山市) 「岸の天王様」といわれた須賀神社。狭山丘陵とその南麓に遙拝所と奥社の姿を留め、江戸時代の村人が必死に願った悪疫鎮護の思いが濃く残ります。中世創建の伝承もあります。 所在地 武蔵村山市岸2-24-3 祭 神 素戔嗚尊(すさのおのみこと) …
2020-04-03 11:31:40
東大和の歴史
天王様(東大和市)
天王様(東大和市) 新しくできた都市計画道路・東大和武蔵村山線の北側に天王様がまつられました。 新しくできた道路と天王様 旧地は左側端二階建て建物の向こう側 クリックで大 所在地 東大和市芋窪四丁目 祭神(豊鹿島神社パンフレットによる) 八雲神社 素盞雄命(すさのうのみこ…
2020-02-10 14:51:14
東大和の歴史
清水上砂台遺跡(旧石器~縄文時代)
清水上砂台遺跡(旧石器~縄文時代) 「清水上砂台遺跡」は2万年から4500年前(先史時代=旧石器・縄文時代)の東大和市内で代表的な遺跡です。 空堀川の古い時代の位置を示す河原の跡や石の槍、カッターナイフ、石焼き料理跡(集石遺構)が発見されています。 場所は、空堀川の南…
2020-01-22 09:24:21
東大和の歴史
諏訪山遺跡(縄文時代中期)
諏訪山遺跡(縄文時代中期) 東大和市の先史時代を語る代表的な遺跡の一つに諏訪山遺跡があります。限られた一部の発掘でしたが6軒の家の跡、5つの窯の跡、たくさんの土器片、石器が見つかりました。縄文時代中期、今から5000年から6000年前に縄文人が住んでいた集落の跡です。 縄文人の…
2020-01-18 19:41:34
東大和の歴史
東大和市に古代からの人が定着する様子
東大和市に古代からの人が定着する様子 東大和市に古代から中世にかけて人々が定着する様子を追っています。多くの場合、狭山丘陵につくられた谷ッに見られそうです。その中から一例として「廻田谷ッ」(めぐりたやつ)を紹介します。図に記した谷ッは一部です。村山貯水池に沈んだ地域にもそれぞれ…
2019-12-31 16:29:25
東大和の歴史
明けましてお目出度うございます
明けましてお目出度うございます。 (クリックで大) 東大和市が市制を施行(昭和45・1970年10月1日)して50年たちました。 地元の仲間たちと話すと、まだ50年、早くも50年と感想はまちまちです。 平成を経て令和になり、歴史的な経過を改めて辿る時と思えます。 今年はそれらを整…
2019-12-23 11:34:50
東大和の歴史
幻に消えた村山軽便鉄道2
幻に消えた村山軽便鉄道2 さて、いつ出来るのか? 村人達、村山貯水池建設関係者は最大の関心事として見守ったことでしょう。こうして調べている者も気をもみます。 ところが、ところがです。どうしたことか、免許が下付された同じ年に計画は突然頓挫してしまいました。しかも、権利が他の鉄…
2019-12-22 09:30:37
東大和の歴史
幻に消えた村山軽便鉄道1
幻に消えた村山軽便鉄道1 もし出来ていれば、狭山丘陵南麓は、今頃、どのようになっていたかと興味津々です。 東大和付近の人々にとって、甲武鉄道(現・中央線)と川越線(現・西武鉄道国分寺線)が唯一の鉄道でした。そこへ、狭山丘陵南麓に鉄道を敷こうと云うのです。 まだ八高線もな…
2019-12-14 09:16:54
東大和の歴史
豊鹿島神社本殿の棟札4(東大和市)
豊鹿島神社本殿の棟札4 豊鹿島神社本殿の棟札の続きです。慶長六年(1601)、正保三年(1646)の二枚について記します。特色は、施主がはっきりして、徳川家康、家光の家臣で、芋窪村(いもくぼむら)をおさめる地頭が大旦那になっています。 ・慶長六年(1601)は徳川家康の直属の家…
2019-12-12 18:57:46
東大和の歴史
豊鹿島神社本殿の棟札3(東大和市)
豊鹿島神社本殿の棟札3 豊鹿島神社現本殿の棟札の続きです。創建棟札(文正元年・1466)、天文19年(1550)の棟札に続いて3枚目になります。 (3)天正4年(1576)棟札について 豊鹿島神社現本殿棟札に、天正4年(1576)のものがあります。 クリックで大 表面 …
2019-12-11 19:36:55
東大和の歴史
豊鹿島神社本殿の棟札2(東大和市)
豊鹿島神社本殿の棟札2 豊鹿島神社現本殿の棟札の続きです。創建棟札(文正元年・1466)に続いて、天文19年(1550)の棟札が発見されています。 (2)天文19年(1550)棟札について 文正元年(1466)棟札 クリックで大 表面 武州多東郡上奈良橋郷 大旦那工藤…
2019-12-10 10:40:50
東大和の歴史
奈良橋郷(東大和市)
奈良橋郷(ならはしごう) 狭山丘陵周辺の中世の郷に「奈良橋郷」がありました。狭山丘陵の中世の郷は一般的には ・丘陵北部 山口、久米川、荒畑、宮寺 ・丘陵南部 村山、宅部 とされます。これに加えて奈良橋郷があったことがはっきりしました。 狭山丘陵中世の郷 クリックで大 …
2019-12-09 09:43:32
東大和の歴史
豊鹿島神社本殿の棟札1(東大和市)
豊鹿島神社本殿の棟札1 かしま様・豊鹿島神社は東大和市の歴史の宝庫です。平成5年(1993)に改修した時、本殿から多くさんの棟札(むなふだ)が発見されました。現在の本殿の創建を伝え、その後の改修の状況を明らかにします。 豊鹿島神社本殿創建棟札 文正元年(1466) クリックで大…
2019-12-06 20:14:17
東大和の歴史
豊鹿島神社に関わる地誌の記録
豊鹿島神社に関わる地誌の記録 豊鹿島神社全景 クリックで大 豊鹿島神社に関わる江戸時代の地誌には『新編武蔵風土記稿』『武蔵名勝図会』『狭山之栞』などがあります。いずれも豊鹿島神社の江戸時代の姿を伝えます。内容が豊富で、示唆に富んでいます。原文の一部を読みやすくし、ふりがなをつけ…
2019-11-26 16:47:14
東大和の歴史
豊鹿島神社の歴史(東大和市)
豊鹿島神社の歴史(東大和市) 豊鹿島神社の歴史を辿ります。最初につくられたのは慶雲4年(707)と伝えます。東大和市内で最も古い神社になります。 現在の本殿は文正元年(1466)に創建されました。応仁の乱の前年です。その棟札には、東大和市のあたりが、中世には「奈良橋郷」とい…
2019-11-19 09:21:29
東大和の歴史
中世の村・廻田谷ッ(東大和市)
中世の村・廻田谷ッ 東大和市内で中世の村落の姿をそのまま見るのは困難です。幸い湖畔三丁目に、二つ池公園があり、周辺から平安時代後半から中世にかけての遺跡が発見されています。 湧き水、平安時代遺跡、谷ッの水田、板碑、寺社の創建と遺跡を追って行くと、素朴な家族、一族、集団、村の…
2019-11-17 09:14:54
東大和の歴史
千葉卓三郎が奈良橋村に滞在(東大和市)
千葉卓三郎が奈良橋村に滞在 五日市憲法草案の作成にあたった千葉卓三郎が奈良橋村(現・東大和市)の鎌田家に滞在していました。明治14年(1881)5月~9月にかけてのことです。当時、千葉卓三郎は深沢村(現・あきる野市五日市)の観能学校の教師であり、「五日市憲法」の草案つくりの最終…
2019-11-15 19:38:35
東大和の歴史
奈良橋自由懇親会(東大和市)
奈良橋自由懇親会(明治14年(1881)11月21日) 東大和市域内で行われた自由民権演説会は、芋窪村の学術演説会(昇隆学校・豊鹿島神社境内)、狭山村の自由懇親会(円乗院、高木・狭山・清水村地域)に引き続き、奈良橋村で行われました。明治14年(1881)11月21日、奈良橋学校…
2019-11-14 19:30:02
東大和の歴史
狭山自由懇親会(東大和市)
狭山自由懇親会 明治14年(1881)9月25日 円乗院 明治14年(1881)5月6日、芋窪村で開かれた「学術演説会」に引き続いて、9月25日、狭山村円乗院において自由懇親会が開かれました。学術演説会から「懇親会」に変わっています。集会条例の制定に伴う監視の目を避けての知恵…
2019-11-10 11:58:50
東大和の歴史
芋窪学術演説会(東大和市)
芋窪学術演説会 明治14年(1881)5月6日、芋窪の昇隆学校で東大和市域内最初の自由民権学術演説会が開かれました。3月27日、中藤村の真福寺で青梅街道沿いの村人達が集まり、「人民の自由、権利の伸張、天賦の自由、人生の福祉・・・」の実現を目指して民権結社「中和会」を発足させ、そ…
2019-11-07 14:42:12
東大和の歴史
中和会の発足(東大和市)
中和会の発足 明治14年(1881)のことです。1月15日、府中の高安寺で、自由民権の実現をめざす北多摩郡有志による自治改進党が結成されて発会しました。その熱々の雰囲気がたぎる2月15日、小川村の小川寺に、青梅街道周辺の村人が集まりました。自治改進党の党員は多くが甲州街道・南多…
2019-11-03 18:59:33
東大和の歴史
自由民権演説会が開かれるまでの経過(東大和市)
自由民権演説会が開かれるまでの経過 明治12年(1879)、神奈川県議会が開設されます。その動きに合わせたように、各地で政談演説会が開かれます。「人民自治の精神」「自主の権利」をテーマとする民権思想の普及を目指し、併せて運動家相互の連携を深めました。 いち早く反応したのが内野…
2019-11-02 14:58:16
東大和の歴史
新聞購読会(東大和市)
新聞購読会 明治14年(1881)、東大和市域の村々で新聞の共同購入、回覧読みが始まりました。新聞は高価でした。個人ではなかなか購読出来ませんでした。時の動き、自治を学ぶ衆楽会の発足に刺激されて、村人達の間に、それらをさらに広く、敏感に捉えようとする活動が広まったものと思われま…
2019-11-01 11:11:38
東大和の歴史
初めての村会(東大和市)
初めての村会(明治12年・1879) 1東大和市域の村々に村会が置かれることになった 明治12年(1879)6月13日、神奈川県は「町村会規則」を布達しました。 村に「村会」を置くことを定めたものです。 明治14年(1881)、政府が国会開設を定める2年前です。 こ…
2019-10-30 14:16:59
東大和の歴史
三光院保存の板碑(東大和市)
三光院保存の板碑 三光院の観音堂と本堂の間、奥の一隅に板碑が集中してまつられています。 左・観音堂 右・本堂 奥の一隅に板碑がまつられる クリックで大 全部で19枚、いずれも村山下貯水池に沈んだ上宅部の地から三光院の移転と共に、この地にうつされました。 全景 全19枚 ク…
2019-10-26 15:05:30
東大和の歴史
どうにかして繋げたい(藤兵衛さんと狼)
どうにかして繋げたい(藤兵衛さんと狼) 上北台公民館の北側にある中北台公園の一角です。幼稚園児の賑やかな声の向こうに、ゲートボール帰りのシニアを囲んで子供達が集まっています。 中北台公園・藤兵衛さんと狼モニュメント クリックで大 目の前に、狐の顔がおじいさんの顔と向かい合った…
2019-10-25 10:12:06
東大和の歴史
ネット・まちなか博物館への思い
ネット・まちなか博物館への思い 昭和19年(1944)、小学校5年生の時です。 東京がアメリカ軍の空襲で、焼夷弾に焼かれて逃げ回る中、八丁堀(東京都中央区)から大和村狭山に疎開してきました。 こちらでも、空襲警報は鳴り「学校へは、山道を行け」とのことで、現在の第一小学校ま…
2019-10-10 12:29:03
東大和の歴史
幻の村山村騒動3
幻の村山村騒動3 明治34年(1901)、当時の東大和市域は、芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村、狭山村、清水村の6村で、高木村他五ヵ村組合村を構成していました。この組合村の村長が ・各村の合意を得ないで、いきなり各村を一つの村に合併する ・村の名前は、「村山村」とする …
2019-10-04 15:15:15
東大和の歴史
幻の村山村騒動2
幻の村山村騒動2 北多摩郡長から呼び出された高木村外五ヶ村組合会の議員達は、郡長と村長の一方的な進め方の背景に何かがあることを察し、反対の運動を郡長を統括する府知事に向けて続けます。 ⑦東京府知事に反対を訴え 明治34年(1901)5月1日、郡長は信頼できないとして、蔵…
2019-10-02 10:59:19
東大和の歴史
幻の村山村騒動1
幻の村山村騒動1 突然の合併騒動 明治34年(1901)、村人達が唖然とする事件が起こりました。当時、東大和市域では、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水村の村々が集まって「高木村他五ヵ村組合村」を構成していました。 高木村他五ヵ村組合 その組合村の村長(宮鍋庄太郎)が、突…
2019-09-08 16:45:14
東大和の歴史
庚申塔をまつった背景(東大和市)
庚申塔をまつった背景 庚申塔を拝すると、文字を刻んだものもありますが、多くが真ん中に怖い顔をした像が彫られ、周りにいろいろなものが彫られています。庚申塔をまつった背景が辿れそうなので、この謂(い)われをたずねてみました。 芋窪慶性院庚申塔 クリックで大 芋窪慶性院の庚申塔です…
2019-09-07 12:21:18
東大和の歴史
東大和市の庚申塔一覧
東大和市の庚申塔一覧 塚やお寺の一隅に、腕を何本も持った怖い顔をした像が浮彫になった石塔を見ることがあります。かっては塚が築かれたり、主要な道路の大事なところに、まつられていました。 奈良橋雲性寺庚申塔 クリックで大 庚申様を信仰する村人達の願いが叶ったり、村の安全を祈ったり…
2019-09-06 10:44:36
東大和の歴史
雲性寺(奈良橋庚申塚)の馬頭観音
雲性寺(奈良橋庚申塚)の馬頭観音 奈良橋雲性寺に庚申塔と並んで馬頭観音がまつられています。もとは、奈良橋の庚申塚にまつられていましたが、旧江戸街道の拡張のため奈良橋雲性寺にうつされました。 庚申塚から移られた馬頭観音、庚申様 クリックで大 三面六臂(さんめんろくひ)の馬頭観…
2019-08-23 09:49:20
東大和の歴史
上宅部(かみやけべ)の里(東大和市)
上宅部(かみやけべ)の里 村山貯水池の建設に伴い下堰堤付近に沈んだ古村です。手前の取水塔の辺りから右側堰堤に沿って、杉本の里、内堀の里に接して営まれました。名前の上宅部(かみやけべ)については若干の説明が必要です。 下堰堤からの上宅部の里の位置 クリックで大 古代から中世にか…
2019-07-26 15:01:29
東大和の歴史
石川の里(東大和市)
石川の里(東大和市) 村山上貯水池の湖底に沈んだ芋窪地域の古村が石川の里です。上の堤防の西(左)側ほぼ全域になります。 狭山丘陵の峰と峰の合間に形成された集落でした。峰々からの湧き水を集めて、柳瀬川に合流する「石川」「宅部川」の最上流部です。 石川の里の現況 クリックで大 …
2019-07-20 14:33:45
東大和の歴史
丸彫地蔵尊(東大和市庚申墓地)
丸彫地蔵尊 奈良橋 庚申塚墓地 文化4年(1807) 奈良橋五丁目、庚申塚墓地に、秩父、坂東、西国の百所めぐり完遂を記念して建立した丸彫地蔵尊があります。 文化4年(1807)のことです。村山貯水池の湖底に沈んだ内堀の里の人々が供養しました。 仏身の高さ74㌢ クリック…
2019-07-19 10:29:02
東大和の歴史
寛政3年(1791)馬頭観音(東大和市最古)
寛政3年(1791)馬頭観音(東大和市最古) 奈良橋五丁目 庚申塚墓地 寛政3年(1791) 奈良橋五丁目、庚申塚墓地に、寛政3年(1791)の馬頭観音(板碑型石碑)があります。 東大和市最古の馬頭観音です。(庚申塚墓地と石仏群についてはこちらをご覧下さい) 正面 クリ…
2019-07-18 12:03:50
東大和の歴史
庚申塚墓地(東大和市)
庚申塚墓地 奈良橋五丁目に庚申塚墓地があります。村山貯水池に沈んだ内堀の里から、大正8年(1919)、阿弥陀堂と共にこの地に移って来ました。報告書などには「庚申墓地」と記載される場合もありますが、このページでは、地元で普段使われている「庚申塚墓地」とします。 墓地内には、内堀…
2019-07-15 14:44:57
東大和の歴史
内堀の里(東大和市)
内堀の里 村山貯水池に沈んだ集落に「内堀」と呼ばれる地域がありました。狭山丘陵の峰と峰との間にできた村です。 春先は水のない田んぼにれんげの花が咲きみだれ、じゅうたんを敷きつめたよう。子供達はその上で遊び、寝っころがって流れる雲を見上げては夢をふくらませ、秋はどこの家にも柿の実が…
2019-07-12 14:05:22
東大和の歴史
馬頭観音をまつった背景(東大和市)
馬頭観音をまつった背景(東大和市) 東大和市内には、寛政3年(1791)を最初として、昭和2年((1927)まで、23基(19基確認)の馬頭観音様がまつられています。どのような経過で村の人々はおまつりしたのでしょうか。資料不足の中で、辿ってみます。 村人達が大切にしたのは紛れも…
2019-07-09 10:58:34
東大和の歴史
東大和市の馬頭観音
東大和市の馬頭観音 神社やお寺の一隅に、「馬頭観音」と彫られた石塔や腕を何本も持った怖い顔をした像が浮彫になった石塔がまつられています。かっては主要道路の大事なところに、馬の供養、道中の安全祈願のためにまつられていました。馬頭観音様です。馬頭観世音菩薩の文字、寛政3年(1791)…
2019-07-05 07:31:51
東大和の歴史
小学校の制限外授業料の徴収
小学校の制限外授業料の徴収 昭和5年(1930)世界恐慌は日本にも押し寄せました。それは都市・農村を問わず、深刻な影響をもたらせました。都市には失業者があふれ、農村には農産物価格暴落による疲弊が、人身売買を生むまでになったとされます。 当時の大和村も例外でなく、さらに、貯水池建設…
2019-07-04 07:21:51
東大和の歴史
生活改善十項
生活改善十項 昭和の初め、東大和市域の社会状況はどのようであったのか? それを知る一つの資料があります。昭和5年(1930)のことです。狭山丘陵周辺も昭和恐慌のあおりを受けて、村の経済、村人達の生活条件に、厳しさが加わりました。余程のことがあったのでしょう、村は「不況対策生活改…
2019-07-01 19:41:07
東大和の歴史
大正十五年六月銘橋柱
大正十五年六月銘橋柱 大正十五年の年号を刻む橋の柱があります。この年号、ありそうで、なかなか見当たりません。村山下貯水池・滝見橋の橋柱です。 クリックで大 大正15年(1926)12月25日、大正天皇の崩御により、皇太子裕仁親王が皇位を継承して、即日「昭和」と改元されました。改元…
2019-06-28 15:10:36
東大和の歴史
藁餅(わらもち)で飢饉を切り抜けよ!!
藁餅(わらもち)で飢饉を切り抜けよ!! 天明三年、幕府のお達し 天明3年(1783)10月3日、幕府代官所の飯塚 伊兵衛から、東大和市域の村々にお触れが届きました。 「御勘定所」より「飢饉で食糧が不足し、米価が高いから、藁(わら)で餅を作って切り抜けろ」という通知が来たので…
2019-06-27 09:44:17
東大和の歴史
飢饉の貯えに田螺(たにし)を拾え
飢饉の貯えに田螺(たにし)を拾え天明8年(1788)7月10日 幕府役人飯塚常之丞から、東大和市域の村々に次のような通達が出されました。飢饉のための貯(たくわえ)に田螺(たにし)を拾い集めよ・水田や小溝(こみぞ)等にいる田螺(たにし)を子供達に拾わせて ・村役人方へ取集めて、 …
2019-06-26 16:55:14
東大和の歴史
大和基地跡地の利用・三分割有償
基地跡地の利用・三分割有償 暫定開放により、基地跡地の市民への一般開放が進みましたが、突如、国は跡地の処理方針を発表しました。大蔵省案 ・昭和51年(1976)1月14日、大蔵省から東京都に対して、大和基地に対する国の利用計画案が示されました。 一般的には三分割とされますが…
2019-06-20 14:10:11
東大和の歴史
大和基地跡地の部分開放・一時使用
大和基地跡地の部分開放・一時使用 現在は、その形跡を残していませんが、米軍大和基地返還運動の中で、画期とも云える基地の部分開放・一時使用が実現しました。 現在の桜が丘三丁目、警視庁総合教養訓練施設、東京都水道局東大和給水所の箇所です。かって、ここも米軍大和基地の一部で、野球場と…
2019-06-18 11:08:06
東大和の歴史
土葬の禁止
土葬の禁止 市の歴史について、墓地の説明をすると ・両墓制はいつ頃まで続いていたのか? ・現在のように火葬にして墓地に納めるようになったのはいつか? との質問を受けます。 「両墓制」と言うのは墓地の区域が ・墓石を設けてある「参り墓」と ・遺骸を埋める「埋め墓」とに 区域を分…
2019-06-15 10:05:18
東大和の歴史
米軍大和基地の返還、跡地の利用運動
米軍大和基地の返還、跡地の利用運動 昭和40年台初め、沖縄基地の返還問題、砂川基地闘争などが話題になる中、立川基地の飛行中止、返還の動きが出てきました。返還決定・昭和43年(1968)12月19日、立川基地滑走路拡張計画中止を米空軍司令官が発表 ・昭和44年(1969)11月30…
2019-06-14 13:56:31
東大和の歴史
大和町になる
大和町になる 大和村が、基地問題に揺れ動いているとき、地方自治の面で、新しい動きがありました。第二次世界大戦後、大きく変革された地方自治が地道に積み上げてきた実績から、さらに仕事を地方自治体に移して地方をより充実させ、住民に直結した仕事の効果を上げるべきとの指摘です。昭和24年(…
2019-06-13 14:05:40
東大和の歴史
米軍大和基地の建設、中学校移転、日米連絡協議会
米軍大和基地の建設、中学校移転、日米連絡協議会 大和村あげての反対運動にもかかわらず、米軍大和基地は建設されました。基地の建設・基地の建設は、昭和27年(1952)11月14日の閣議で決定されていました。 ・土地は土地収用法による強制収用により所有者西武鉄道(株)から買い上げられ…
2019-06-12 16:20:37
東大和の歴史
米軍大和基地の建設通知、反対運動
米軍大和基地の建設通知、反対運動 「ここに、米軍の基地があったんだって?」 「ちっとも知らなかった」 玉川上水駅前広場の「米軍大和基地の碑」の前です。玉川上水駅前広場に設けられた「米軍大和基地の碑」「ここから、大体、 都立東大和南公園のグラウンド、 東京都水道局東大和給水所…
2019-06-09 13:39:40
東大和の歴史
ほうそうの話
ほうそうの話 今では、ほとんど話題になりませんが、「ほうそう」という命取りになった伝染病の話です。『東大和のよもやまばなし』はこう語り始めます。 「昔、はやりやまいの一つに「ほうそう」(天然痘)がありました。ほうそうは死亡率の高い伝染病で、種痘が一般に行なわれ始めた明治の初年…
2019-05-29 19:37:50
東大和の歴史
円達院(東大和市の修験)
円達院(東大和市の修験) 清水村(宅部)、本山派、府中門善坊末。 修験は村に医者の少なかった江戸時代、病気になった時、お祓(はら)いや祈祷(きとう)で村人達と深い関わりを持っていました。 修験の持ち味それぞれの特色を発揮しますが、今回紹介する「円達院」は別当として神社を預かる役…
2019-05-24 10:35:59
東大和の歴史
メリケン袋物語
メリケン袋物語 「大正八年頃のことです。尋常高等小学校高等科二年の男子生徒の発案で、小学生は男も女もメリケン粉の空袋を持ちよりました。袋をきれいに洗い型紙を渡された女子はそれでパンツを縫いました。」モニュメント・メリケン袋 『東大和のよもやまばなし』は、こう語り始めます。そして …
2019-05-21 09:49:34
東大和の歴史
玉川上水の開削の背景、ルートは?
玉川上水の開削の背景、ルートは? 玉川上水が身近にあるだけに、これだけのものが、何時、どのようにして造られたのか、知りたくなります。1進む江戸の整備、水不足 家康の関東入府後50年を経て、江戸の整備が進み、参勤交代制も定着、人口が増加して、飲料水が不足となりました。家康入府当時、…
2019-05-20 17:02:52
東大和の歴史
玉川上水・野火止用水の東大和周辺の現状
玉川上水・野火止用水の東大和周辺の現状 玉川上水・野火止用水と東大和の歴史的な関わりは、「東大和市と玉川上水・野火止用水との関わり」に記しました。今回はその要所をご案内」します。現状は大きく変化し、よほど注意しないとその跡が辿れません。昭和30年代 大和町都市計画図の玉川上水・野…
2019-05-19 19:53:13
東大和の歴史
東大和市と玉川上水・野火止用水との関わり
東大和市と玉川上水・野火止用水との関わり 歴史の上でも景観的にも人気のある玉川上水と野火止用水、東大和市とも深い関係があります。両用水とも市の南端にあり、用水の状況が変化していることもあり、 ・一体、どこにあるのですか ・東大和市とどのような関係があるのですか と質問されま…
2019-05-09 19:57:27
東大和の歴史
阿弥陀堂跡(東大和市高木)
阿弥陀堂跡 高木神社から清戸街道を東に進んだ北側に阿弥陀堂がありました。現在の宮鍋家墓地です。かって阿弥陀堂があった宮鍋一族墓地 江戸時代の地誌 『新編武蔵風土記稿』 阿弥陀堂 砂にあり、二間半に三間、本尊八寸許座像なり、『狭山之栞』 阿弥陀堂 本尊は三尊の阿弥陀如来の座像長…
2019-05-07 12:08:52
東大和の歴史
高木薬師堂跡(東大和市 現・薬師堂墓地)
高木薬師堂跡(現・薬師堂墓地) 円乗院の山門に向かって左側に、高木と狭山の境界でもある小径があり、沿って墓地があります。薬師堂墓地と呼ばれます。名の通り、ここに、地元では蟹峰堂(かにみねどう)と呼ぶ薬師様をおまつりする堂がありました。薬師堂墓地の位置 円乗院西側道路沿いにある …
2019-05-03 20:19:36
東大和の歴史
機場あそび
機場あそび 来るか来るかと 機音やめてよ てんぼつめたり たるめたり 東大和市も昭和の10年代頃まで、機織りが盛んでした。近所の古老から「腕のいい娘3人育てば成金様」と云うほどだったと聞きました。この地方では、特に大正の初め、綿糸織物から絹糸織物に変わり、相場にあおられながら…
2019-04-29 11:14:46
東大和の歴史
慶性院の歴史(東大和市)
慶性院の歴史寺 名 慶性院(けいしょういん) 白部山(しらべさん)医王寺と号す。中藤村・真福寺の末。 所在地 芋窪六丁目1353番地 宗 派 新義真言宗豊山派 本 尊 不動明王 多摩四国第四十一番札所 奥多摩新四国第四十八番札所1創建創建の場 慶性院は先史時代から…
2019-04-21 19:04:26
東大和の歴史
モニュメント・桜
モニュメント・桜(11) 桜街道の一隅に、人だかりがします。 桜街道の桜の木のもとに設置されたモニュメント・桜 クリックで大 「あれ何・・・?」 「お地蔵さんの代わりでしょう・・・?」 「市が置いてるらしいよ」 「市って、宗教に関するものは置けないはずじゃない!」 疑…
2019-04-16 19:58:16
東大和の歴史
衆楽会(東大和市の自由民権学習結社)
衆楽会(東大和市の自由民権学習結社)『東大和市史資料編』10p58 村山貯水池が出来るずっと前のことです。湖底に沈んだ芋窪の石川にあった蓮華寺(れんげじ)で、新しい時代を目指す画期的な活動が開始されました。「衆楽会」です。 明治になって10年とちょっと、まだ憲法はなく国会もありま…
2019-04-11 19:54:07
東大和の歴史
蓮華寺の歴史
蓮華寺の歴史寺 名 石澤山愛染院蓮華寺(れんげじ) 所在地 東大和市芋窪三丁目1603 宗 派 新義真言宗 豊山派 本 尊 不動明王 多摩新四国第四十番霊場蓮華寺本堂 蓮華寺の歴史を辿ると、寺の建立した石碑に刻まれた日時と他に記された文書による日時との間に違いがあります。このペー…
2019-04-10 19:28:00
東大和の歴史
蓮華寺(東大和市)
蓮華寺(東大和市)寺 名 石澤山愛染院蓮華寺(れんげじ) 所在地 東大和市芋窪三丁目1603 宗 派 新義真言宗 豊山派 本 尊 不動明王 多摩新四国第四十番霊場蓮華寺 クリックで大 地元で芋窪街道と呼ばれる主要な南北道路に面して門があります。 右側の鳥居は豊鹿島神社要石(かな…
2019-04-02 09:47:24
東大和の歴史
大和村の誕生(東京都東大和市)
大和村の誕生(東京都東大和市) 大正8年(1919)11月1日、大和村が誕生しました。 大正デモクラシーと呼ばれる国際的にも、政治的にも、経済的にも変化の多い時代です。村山貯水池の建設の最中でした。古村の162戸の多くが丘陵南麓の地域に移転し、地域は激しく変貌を続けていました。…
2019-03-30 11:55:12
東大和の歴史
建設ブーム(村山貯水池建設工事)
建設ブーム(村山貯水池建設工事) 大正5年(1916)5月、村山貯水池の建設工事が着工されます。村は活気づきました。不況から働く場、現金収入を得る場に乏しかった村人たちにとって格好の働き場でした。現在のダム工事とは違い、当時の工法は人力による工事が多く、大人だけでなく、子供はムシ…
2019-03-28 10:10:22
東大和の歴史
村山貯水池(多摩湖)の建設工事
村山貯水池(多摩湖)の建設工事村山下貯水池取水塔 クリックで大 村山貯水池の建設工事は大事業でした。大まかに次のような経過を辿っています。 大正4年(1915)、移転がほぼ終わります。待っていたかのように、大正5年(1916)、工事の起工が行われます。完成予定は3年後の大正8年度…
2019-03-25 19:28:00
東大和の歴史
徳川氏御朱印状(氷川大明神・現清水神社宛8通 市重宝)
徳川氏御朱印状(氷川大明神・現清水神社宛8通 市重宝)所在地 東大和市清水3丁目786番地の1 清水神社 指 定 平成元年4月1日 説 明 江戸時代御朱印状の発給によって所有地に年貢や課役が免除された寺社は全国に及ぶが、明治維新後はそれらの多くが没収され、現在では残在する…
2019-03-24 11:20:08
東大和の歴史
徳川氏御朱印状(三光院12通 氷川大明神3通)(市重宝)
徳川氏御朱印状(三光院12通 氷川大明神3通)(市重宝)所在地 清水4丁目1132三光院 門屋大寿氏 指 定 昭和49年9月20日指定 説 明 旧清水村(現在清水)の氷川神社および三光院は、江戸時代氷川神社5石、三光院3石の朱印をうけていた。この御朱印状は徳川将軍が領有許可証と…
2019-03-21 18:26:57
東大和の歴史
上の台遺跡の石器(東大和市指定文化財4 市重宝)
上の台遺跡の石器 東大和市指定文化財4 市重宝出土地 清水二丁目~三丁目 指 定 昭和55年4月1日 説 明 丸ノミ形石斧と大型槍先形尖頭器は先土器時代最終末から縄文時代最初期の資料として貴重である。 清水二丁目から三丁目の広範囲にわたる上ノ台遺跡から発見された次の石器が市の重宝…
2019-03-20 18:42:46
東大和の歴史
子供みこし(モニュメント18)
子供みこし(モニュメント18) 蔵敷公民館の正面入り口、向かって右側の一遇です。催し物があるときは自転車置き場のはずれになります。 あまり目立ちませんが、面白い話題が詰め込まれています。蔵敷公民館表門を入って右側 子供みこし 「お灯明かしら・・?」 「蓋みたいになってると…
2019-03-18 11:13:47
東大和の歴史
上ノ台遺跡(東大和市)
上ノ台遺跡(東大和市)遺跡の位置 楽しみな遺跡です。旧石器時代(12000年前)から、一度は途絶えながら平安時代(1000年前)にかけて、長い間人が活動した地域です。 全く、その状況を留めませんが、清水二丁目~三丁目、清水神社の南側から庚申神社にかけての横に広いところです。上ノ…
2019-03-15 19:48:26
東大和の歴史
石皿(東大和市指定文化財 市重宝)
石皿(東大和市指定文化財 市重宝) 縄文時代の中期から後期(約5000~3000年前)に居住していた人が、木の実などをすり潰したりするために使っていた石器として、東大和市が市指定文化財・市重宝に指定しています。 画像下の石器が石皿(いしざら)で、中の丸みを帯びた石器が磨石(すりい…
2019-03-11 20:56:40
東大和の歴史
青梅橋跡(東大和市史跡)
青梅橋跡(東大和市史跡) 西武拝島線の東大和市駅南口を出ると広場になっています。かって、ここに野火止用水が流れていました。 その野火止用水に架けた橋が「青梅橋」です。 画像の横断歩道になっている辺りに用水の流れと橋がありました。流れの中央が東大和市と小平市の境です。 その跡…
2019-03-08 19:31:32
東大和の歴史
比翼塚と古文書(明治、徳川家臣の来村)
比翼塚と古文書(明治、徳川家臣の来村) 明治6年(1873)です。東大和市高木村の明楽寺の庫裡でおきた出来事を報ずる文書があります。変死人御訴 明治6年(1873)11月 里正日誌13p266 クリックで大大まかには 仮神官宮嶋岩保の妻きよさんは、 ・本年8月に夫が死亡し、物寂…
2019-03-07 19:52:31
東大和の歴史
高札の書き換え
高札の書き換え内野杢左衛門が書き留めた「五箇条の御誓文」(『里正日誌』10p52) クリックで大 ご一新で、新しい時代に入りました。東大和の村々にも、新政府軍の動向が伝えられ、旧幕臣の帰国や浪人などの往来があり、厳しい空気が生まれていました。そのような中で、早速、「五箇条の御誓文…
2019-03-04 19:33:05
東大和の歴史
谷ッに散在する集落(東大和市の中世2)
谷ッに散在する集落(東大和市の中世2) 中世、東大和市域の人々はどこに住んでいたのでしょうか? どのような生活をしていたのでしょうか?中世、狭山丘陵の集落(郷)の分布 ・狭山丘陵のほぼ中央の峰に、古代からの多摩郡と入間郡の境界が定められて ・狭山丘陵に刻まれた谷々を中心にして…
2019-03-03 11:58:49
東大和の歴史
村山党の武士の館
村山党の武士の館 狭山丘陵周辺に本拠を置いた村山党の武士はそれぞれに館を構えたとされます。 その全容は明らかではありませんが、次のように訪ねることができます。村山氏関係館・城位置図 クリックで大・山口氏の館(山口城 所沢市)山口城の土塁や構えが残されています。山口貯水池に沈んだ…
2019-03-01 19:49:49
東大和の歴史
鎌倉時代、東大和地域の武士団は?(東大和市の中世1)
鎌倉時代、東大和地域の武士団は?(東大和市の中世1) 狭山丘陵周辺の中世の初期は武蔵七党の時代に当たります。東大和市域には、どのような武士団が定着していたのでしょうか? 残念ですがはっきりしません。武蔵七党 治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵しました。この挙兵に武蔵七党の面…
2019-02-26 11:22:09
東大和の歴史
清水庚申神社の庚申塔(東大和市郷土資料)
清水庚申神社の庚申塔(東大和市郷土資料)所在地 東大和市清水3丁目869番地 高木神社方面からの清戸街道、清水神社方面からの古道が交差する三叉路 東大和市郷土資料 昭和49年(1974)9月20日指定 指定理由 近世中期の所領関係がわかる地名が刻まれた庚申塔高木神社方面か…
2019-02-25 10:39:22
東大和の歴史
村が迎えた明治元年
村が迎えた明治元年 明治を迎える村は大きな緊張に包まれていました。東大和市域の村々の明治元年の出来事を追ってみます。慶応4年(1868)1月です。指田日記 中藤村(武蔵村山市)指田摂津氏の日記クリックで大 「1月1日、門松を立つる事を止(とど)め、年礼を休す」 と隣接中藤村に残…
2019-02-23 11:45:54
東大和の歴史
「きつねの嫁どり」(モニュメント7)
「きつねの嫁どり」(モニュメント7)モニュメント・きつねの嫁どり クリックで大 「これキツネさんでしょ?」 「そうね、女の子みたい」 「いらっしゃいって、云ってるの?」「・・・・・」 「うん、でも、ナンカ、云えなくて、モジモジかも」 「いや、初めましてでしょう」 「おすましかも…
2019-02-14 09:54:24
東大和の歴史
啓示(モニュメント12)
啓示(モニュメント12) 東大和市役所の北口、玄関に達する手前に両手をかざして天を仰ぐ一群の人物群像があります。 目に付く場所なので、急ぐ人でも 「オヤ?」 と足を止めて、左下の銘板に目をやり 東大和市役所の北口、玄関に達する手前の広場 モニュメント「啓示」 モニュメント「…
2019-02-09 14:15:39
東大和の歴史
鳥と子供たち(モニュメント1)
鳥と子供たち(モニュメント1) 東大和市駅の北側道路沿いの一隅(桜街道の北側の広場)です。駅前だけに人通りも多く、駅広への交差点の脇でもあることから、チョットしたたまり場になっています。桜街道の北側の広場にモニュメント・「鳥と子どもたち」があります。 そこに、この像(…
2019-02-08 11:04:09
東大和の歴史
狭山丘陵の古狸(モニュメント6)
狭山丘陵の古狸(モニュメント6) 東大和市内の江戸街道の北側、あたりはすっかり住宅地になった水道第二緑地に独特のポーズのモニュメントがあります。モニュメント・狭山丘陵の古狸「ずーっと昔の人のおもちゃ」 「ワンちゃんのヨロイ」 「・・・」 場所が場所だけに、それに、ステンレス製…
2019-02-04 16:20:15
東大和の歴史
高木のまんじゅっ鉦(モニュメント24)
高木のまんじゅっ鉦(モニュメント24)高木の空堀川と奈良橋川が合流するところに、モニュメントがありました。奈良橋川と空堀川の合流地点にあったモニュメント・高木のまんじゅっ鉦 大人達からは 「なに、これ、ちっともわからない」 と不評でしたが、子供たちからは 「金色のまんじゅう食…
2019-02-03 19:02:43
東大和の歴史
野球少年(モニュメント25)
野球少年 狭山公民館の向かって右側、狭山神社寄りです。子供さんからシルバーまで足を止めます。 市が設置したモニュメント・野球少年があります。 「ずいぶん、ユニホームがキッチキチだね」 「スパイクも運動靴みたい」 「なんで、ここにあるの。ここじゃ、野球は出来ないよね」 引率…
2019-02-02 12:10:55
東大和の歴史
高木の塩釜様(東大和のよもやまばなし7)
高木の塩釜様(東大和のよもやまばなし7)塩釜神社全景 「お産は大変だったんですね」 「今では、病院でなさるでしょう・・・」 「神様にお祈りするのもよくわかります」 「でも、どうして、高木神社と一緒に塩釜様がおまつりされているのですか」 「・・・・・」 高木神社本殿に向…
2019-02-01 11:27:33
東大和の歴史
高木のまんじゅっ鉦
高木のまんじゅっ鉦まんじゅっ鉦 東大和のよもやまばなしの挿絵 クリックで大 火の見櫓の吊り鐘っていえば、たいてい、下のほうが丸くて上に行くにしたがってつぼまる形を思い浮かべます。ところが、そうではなくて、図のように、まん丸い鉦(かね)がかかっていたという話です。 かって、高木地…
2019-01-28 14:03:11
東大和の歴史
江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)
江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道) 今では想像も出来ませんが、狭山丘陵の麓から南側は人家も何もない、武蔵野の原野が広がっていました。そこに一筋の道が出来ました。そのお話です。最初の江戸街道(現・新青梅街道)古代中世は縦の広域道路が中心でしたが、初めて横断する道筋が出来…
2019-01-27 16:17:38
東大和の歴史
村に来た地頭様
村に来た地頭様初期地頭・陣屋の配置図 クリックで大 家康の家臣が村に来たのは、江戸市中が未整備なことと、つい先日まで後北条氏支配であった村々の治安維持が目的であったと考えられます。地元では「領主様」「地頭様」と呼ばれました。 「泣く子と地頭には勝てぬ」と云われますが、その地頭が最…
2019-01-25 14:54:29
東大和の歴史
村に地頭がやってきた
村に地頭がやってきた 天正18年(1590)、小田原合戦が終了、秀吉は家康に関東移封を命じます。家康は早くも7月から8月にかけて江戸に入りました。東大和市の旧家の杉本家28代勘解由種繁(寛永13・1636年6月14日没)は、当家の家譜を記す『代々のかがみ』に 「当代、天正18年…
2019-01-21 09:52:36
東大和の歴史
村山貯水池(多摩湖)に沈んだ古村の移転
村山貯水池(多摩湖)に沈んだ古村の移転 大正4年(1915)、石川の谷(上貯水池)から移転が開始されました。全162戸、大半が丘陵の南側(表)に移りました。家財道具は丘陵の坂道を、喘ぎあえぎ、家族中で大八車の後を押して運びました。下りは逆に支えるのが大ごとで、屈強の若者が腰を痛め…
2019-01-16 19:46:34
東大和の歴史
村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の住居
村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の住居 村山貯水池に沈んだ地域には、162戸の家々がありました。161戸との記録もありますが、市民グループの調査により実際に復元した数は162戸でした。その配置は下図の通りです。村山貯水池に沈んだ地域には、5つの村と162戸の家々がありました。…
2019-01-15 19:13:56
東大和の歴史
村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の食生活
村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の食生活 村山貯水池の湖底に沈んだ村々は古代の住居址を残します。また、寺社は中世の創建を伝えます。 さらに、南麓の地域には僅かの水田しかなかったのに比し、この地では、比較的多くの水田(畑53町、水田40町・約40万平方メートル)を営んでいま…
2019-01-14 10:31:45
東大和の歴史
村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の産業
村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の産業 湖底に沈んだ村は周囲を山林で囲まれ、中央を流れる石川・前川に沿って水田が営まれ、山林との間に畑地が広がっていました。その状況は下図と表の通りです。湖底に沈んだ集落の様子 クリックで大 狭山丘陵の大きな谷に成立した集落であり、土地利用でし…
2019-01-10 14:54:53
東大和の歴史
村山貯水池(多摩湖)買収対象地域の集落
村山貯水池(多摩湖)買収対象地域の集落集落 村山貯水池建設に伴い買収対象地域となった集落はどのような状況だったのでしょうか。 住居戸数は162戸(161戸説もあります)でした。当時の村々の総戸数は771戸でしたので、約20%に当たります。 その配置は下図の通りです。村山貯水池…
2019-01-08 09:14:59
東大和の歴史
村山貯水池(多摩湖)の用地買収
村山貯水池(多摩湖)の用地買収1買収価格の提示 大正3年(1914)1月10日、用地測量のための詰め所が設置されると、地元の村人は素早く反応し、1月22日、移転地住民大会を開き、共同して対応することを決めました。 東京市は、円滑な事務の実施を図るためか、2月23日、地元の有力者…
2019-01-06 16:10:26
東大和の歴史
村山貯水池(多摩湖)移転地住民大会
村山貯水池(多摩湖)移転地住民大会 大正3年(1914)1月10日、芋窪村蓮華寺境内に用地測量のための東京市の職員の詰め所が設けられました。その動きを目にして、東大和市域の村人達は行動を起こします。 ・大正3年(1914)1月22日 移転地住民大会 ・大正3年(1914)2月…
2019-01-05 19:34:07
東大和の歴史
村山貯水池の建設(測量)
村山貯水池の建設(測量) 明治45年(1912)5月、村山貯水池建設案が決定されると、早速、執行体制が整備されました。 ・大正元年(1912)9月7日、内務大臣原敬から村山貯水池建設について、内閣の認可の訓令 ・大正元年10月、東京市水道課に拡張準備掛を設置 ・大正2年(1913…
2019-01-02 18:19:23
東大和の歴史
村山貯水池の計画と決定
村山貯水池の計画と決定 明治40年代になると東京市中の飲料水不足は目に見えて激しくなりました。東京市は、淀橋浄水場の拡張工事などを行って対応します。しかし、絶対量の不足は否めず、根本的な水道拡張事業を計画し調査を実施することとなりました。明治42年4月、その調査と計画を工学博士中…
2018-12-31 18:42:43
東大和の歴史
東京の飲み水不足 村山貯水池の建設へ
東京の飲み水不足 村山貯水池の建設へ 明治になっても、東京の上水は江戸時代とかわらぬ玉川上水、神田上水を中心とするものでした。明治7年(1874)銀座に煉瓦街が出来ます。明治16年(1883)、鹿鳴館を中心に華やかな外交、紳士・淑女の交流が展開されます。洋風の生活様式が急速に流入…
2018-12-24 18:58:58
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 6現代 2大正時代
大まかな歴史の流れ 6現代 2大正時代 明治45年(1912)7月30日、明治天皇没、皇太子嘉仁(よしひと)践祚、大正と改元されました。米価の変動、暴騰の激しい中でした。この年4月に、狭山丘陵の地に村山貯水池の建設が決まり、村人の関心を強く集めていた時でした。東大和市域の大正時代…
2018-12-14 10:43:15
東大和の歴史
明治初年の年貢減免運動
明治初年の年貢減免運動 「明治初年の年貢なんて! 江戸時代じゃあるまいし」 と疑いの眼が向けられそうです。でも、狭山丘陵の村々で起こった事柄です。 当時の村の長がいかに労力を使って目的を達成したかの具体例です。その後、自由民権運動を進めた一方の旗頭でもありました。天候不順 明…
2018-12-11 19:36:05
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 6 現代 1明治 3行政区分の変更
大まかな歴史の流れ 6 現代 1明治3行政区分の変更 江戸から明治に移り、村は変わります。徳川幕府中心であった支配機構、行政区分に度重なる変更が行われました。政体書の公布、版籍奉還、廃藩置県とめまぐるしく変わります。そして現在の基礎が定まります。その経過を現場で追うのは結構厳しい…
2018-12-10 15:07:33
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 6現代 1明治 2村議会他
大まかな歴史の流れ 6現代 1明治2村議会、自由民権、村山貯水池1村議会の成立から連合戸長制へ(1)町村会規則 明治12年(1879)6月13日、神奈川県は「町村会規則」を布達しました。村に「村会」を置くことを定めたもので、国に先行すること1年前でした。 ・議員の数は町村内の戸数…
2018-12-09 13:29:42
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 6現代 1明治 1明治の村
大まかな歴史の流れ 6現代 1明治1明治の村 (1)高札の書き換え書き換えられた高札の一枚 クリックで大 慶応4年(9月から明治元年・1868)、新政府は旧幕府の高札を撤去し、改めて新札を掲げるようにとの通達を出し、蔵敷村では、3月16日に受けました。3枚の定札と2枚の覚札を掲げ…
2018-12-08 10:26:12
東大和の歴史
盗賊二人打ち殺しのこと
盗賊二人打ち殺しのこと 幕末です。明治維新寸前の慶応4年(1868)閏4月16日のことです。現在の多摩都市モノレール桜街道駅から青梅橋にかけての桜街道(旧青梅街道)での出来事です。 当日は晴れ、午前10時頃です。芋久保村の弥五兵衛と儀兵衛が田無村へと出かけました。青梅橋を渡っ…
2018-12-07 09:27:27
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 5 近世 5 幕末の緊張
大まかな歴史の流れ 5 近世 5 幕末の緊張 1 黒船来航・松材切り出し ペリー来航 嘉永6年(1853)6月3日、ペリーが黒船を引き連れ、浦賀沖から江戸湾に姿を現しました。アメリカ大統領の親書を持っての和親、開港要求です。幕府はすでにオランダから「別段風説書」によって事態を予測…
2018-11-23 09:40:21
東大和の歴史
豊鹿島神社の境内社5 紅葉稲荷
豊鹿島神社の境内社5 紅葉稲荷 豊鹿島神社表参道の石段を上がると右側に赤い鳥居が目に入ります。紅葉稲荷社への参道です。豊鹿島神社表参道の石段右側の紅葉稲荷参道 山道の石段をあがると朱の鳥居があり、豊鹿島神社の本社殿を包み込むように右側に張り出した丘陵の峰に達します。 ほほ平地にな…
2018-11-22 11:06:43
東大和の歴史
豊鹿島神社の境内社4 社殿右石段上
豊鹿島神社の境内社4 社殿右石段上 本社殿の右側から奥宮への道順の石段を上がります。境内社が並びます。左から、稲荷神社、産泰社、御嶽神社の三社と九頭龍大神碑です。稲荷神社、産泰社、御嶽神社 クリックで大 歴史的にたどると、『新編武蔵風土記稿』には各社とも記載がなく、『狭山之栞』に…
2018-11-21 11:23:17
東大和の歴史
豊鹿島神社の境内社3 社殿右下側
豊鹿島神社の境内社3 社殿右下側 豊鹿島神社の社殿から右側、奥宮に行く道筋の石段右に、二つの祠があります。一つは相殿で愛宕神社、白山神社、その右に滝沢大明神がまつられています。豊鹿島神社境内社3 本社殿右側石段右 クリックで大1愛宕神社 愛宕神社と白山神社は二社の相殿になってい…
2018-11-20 11:57:29
東大和の歴史
豊鹿島神社の境内社2 社殿左側・日吉神社
豊鹿島神社の境内社2 社殿左側・日吉神社 豊鹿島神社本社殿左側 日吉神社 クリックで大 豊鹿島神社社殿、向かって左側です。木陰に隠れて見過ごしがちですが、雨落溝に沿って歩を進めると石灯籠と古木の切り株に守られるように木造の祠があります。 左側・元禄15年(1702)の石灯籠、右…
2018-11-19 15:26:08
東大和の歴史
豊鹿島神社の境内社1(概要)
豊鹿島神社の境内社1(概要) 豊鹿島神社には、現在、境内に本社殿の他8つの社(祠)がまつられています。下画像の通り、本社殿の左側に1社、右側に6社、少し離れて1社です。それぞれにいわれがあり、お祈り、お願いする事柄も多様です。歴史的に見ると位置や名前が変わっていて、これまで積み続…
2018-11-17 12:36:12
東大和の歴史
豊鹿島神社境内二つの碑
豊鹿島神社境内二つの碑 豊鹿島神社境内には、多くの神々の祠と共に次の二つの碑があります。1九頭龍大神碑 御嶽神社と九頭龍大神碑 クリックで大 九頭龍大神碑(くずりゆうおおかみ) 昭和7年(1932)4月建立 高さ155センチメートル 芋窪の方々による戸隠講中による碑です。 …
2018-11-12 08:30:22
東大和の歴史
豊鹿島神社の石灯籠(東京都東大和市)
豊鹿島神社の石灯籠(東京都東大和市) 豊鹿島神社には社殿の左右に江戸時代の灯籠が一つずつあります。両者ともに火袋を欠いていますが、笠石に江戸時代初期、中期の貴重な銘が彫られています。 社殿左側 鹿嶋大明神御宝前(元禄15年・1702)碑 日吉神社脇の元禄15年(1702)石灯籠…
2018-11-05 09:43:12
東大和の歴史
蔵敷地域の神社(東京都東大和市 現況と明治初年)
蔵敷地域の神社(東京都東大和市 現況と明治初年) 1現在と明治初年の位置 蔵敷地域には、現在七社の神々がまつられています。蔵敷地域現在の神社位置図 クリックで大 現在の地元の方々の呼び名で、御嶽神社(みたけじんじゃ)、熊野神社、浅間様(せんげんさま)、愛宕様、山の神様(山祗大神・…
2018-11-01 19:40:37
東大和の歴史
愛宕神社(東京都東大和市蔵敷)
愛宕神社(東京都東大和市蔵敷) 位置 明治6年(1873)蔵敷村戸長から神奈川県令に出された絵図では太子堂の斜め北、御嶽神社と熊野神社の間に記されています。 狭山丘陵内に明治11年(1878)の石祠があります。 祭神 不明 創建 不明狭山丘陵の峰にまつられた山の神と愛宕社 …
2018-10-30 13:24:12
東大和の歴史
山の神・山祗社(やまずみ)(東京都東大和市蔵敷)
山の神・山祗社(やまずみ)(東京都東大和市蔵敷)狭山丘陵の峰にまつられた山の神 クリックで大位置 明治初年までは現在の立野三~四丁目の畑地域にまつられていました。 現在は狭山丘陵内、熊野神社裏山に山の神の石祠があります。 祭神 不明 創建 不明 備考 「明治2年(186…
2018-10-29 11:28:21
東大和の歴史
山王社・日枝社(東京都東大和市蔵敷)
山王社・日枝社(東京都東大和市蔵敷)山王様・三本杉全景 クリックで大位置 蔵敷二丁目510 祭神 不詳(一般的には大山咋神(おおやまくいのかみ=山の地主神)と大物主神(または大国主神)を祭神とする) 創建 不詳 備考 「明治2年(1869)6月に行われた神仏混淆調」では山王社とし…
2018-10-28 19:53:37
東大和の歴史
浅間神社(東京都東大和市蔵敷)
浅間社 現在は狭山丘陵の頂付近にまつられています。クリックで大浅間神社(東京都東大和市蔵敷)位置 明治6年(1873)蔵敷村戸長から神奈川県令に出された絵図では現在の蔵敷二丁目577付近に記されています。 現在、狭山丘陵内に石祠があります。 祭神 不明(一般的には木…
2018-10-24 19:32:10
東大和の歴史
厳島神社・弁天社(東京都東大和市蔵敷)
厳島神社・弁天社(東京都東大和市蔵敷)位置 東大和市蔵敷一丁目367(創建当初から変わりません) 祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・弁財天 創建 永禄12年(1569)内野家伝承、天正6年(1588)小島家伝承、寛永6年(1629)『新編武蔵風土記稿』 と分かれま…
2018-10-22 15:44:05
東大和の歴史
熊野神社(東京都東大和市蔵敷)
熊野神社(東京都東大和市蔵敷)熊野神社参道 青梅街道、バス停蔵敷、高札場手前を丘陵側に向かう クリックで大位置 東大和市蔵敷一丁目419 祭神 伊弊諾(いざなぎ)・伊弊丹(いざなみ)尊 創建 不詳 内野家伝承・永禄年間(1558~1572)前後、 小島家伝承・天文2年…
2018-10-21 18:35:07
東大和の歴史
おみたらし
おみたらし 蔵敷の御嶽神社境内です。 社殿の右側、自然石の石神の近くに湧き水の小池があります。 地元では「おみたらし」と呼びます。その前です。 「みたらしと聞くと、下鴨神社の御手洗祭とみたらし団子が浮かびます。何か関係があるのですか?」 「府中市の浅間山におみたらしって湧…
2018-10-20 19:03:46
東大和の歴史
御嶽神社(東京都東大和市蔵敷)
御嶽神社(東京都東大和市蔵敷)御嶽神社参道 クリックで大位置 東大和市蔵敷一丁目441 祭神 不詳 地元の方々は武州御嶽神社からの分社とする 創建 不詳 明治3年(1870)蔵敷村から韮山県に提出した報告書では 熊野神社の摂社・御嶽大神として記載 伝承 雨乞い …
2018-10-15 19:34:26
東大和の歴史
ばばあのふところ
ばばあのふところ青梅街道から厳島神社の参道が続きます。左前の防火貯水槽がかっての弁天池です。 クリックで大 東大和市の微笑ましい地名の一つに蔵敷の「姥の懐」(うばのふところ)があります。地元の古老はざっくばらんに「ばばあのふところ」とも呼びます。 青梅街道の蔵敷バス停から西へ約…
2018-10-14 18:23:35
東大和の歴史
貯水槽になった弁天池
貯水槽になった弁天池青梅街道沿いにある防火存貯水槽 脇の道が弁天様(厳島神社)への参道 クリックで大 狭山丘陵の懐に住む村人にとって、裾野の湧き口からこんこんと湧き続ける清水は宝物でした。 ほとんどの旧家がその水を日常的に利用できる位置に建てられています。 奈良橋交差点から青…
2018-10-13 09:44:46
東大和の歴史
植物画を描く
植物画を描く 狭山丘陵に咲く花から園芸植物まで 11月3日(土・祝)~12月2日(日) 郷土博物館企画展示室 岸和夫氏と受講生の作品を展示 野草教室、バードウオッチング植物画を描く 2018年11月3日(日・祝)~12月2日(日) クリックで大きくなります商物賀の展示、野…
2018-10-13 09:24:05
東大和の歴史
旧吉岡家住宅 秋の公開
国の登録有形文化財 旧吉岡家住宅 秋の公開 2018年10月26日(金)~28日(日) ①吉岡幸雄氏の講演会 テーマ 吉岡堅二の人物像や染色 ②文化財ボランティアによるガイド が行われます。旧吉岡家住宅 秋の公開 10月26日(金)~28日(日) クリックで大きくなります…
2018-10-12 12:15:07
東大和の歴史
東大和市域の属した「郷」は、そして「郡界」は?
東大和市域の属した「郷」は、そして「郡界」は? 東大和市域の北側は東京都と埼玉県の境です。これがどのようにして生まれたのかの謎解きです。 武蔵国の成立にともない、国郡制のもと、7世紀から8世紀初めにかけて地方制度が整ってきました。「郡」のもとに「郷」が置かれました。多摩郡の郷 …
2018-10-09 14:51:26
東大和の歴史
将門の乱と西楽寺の不動明王像
将門の乱と西楽寺の不動明王像 東大和市に平将門(たいらのまさかど)の乱に関わる伝承があります。乱との直接の関係は薄いのですが、村山貯水池に沈んだ西楽寺(さいらくじ)の不動明王像です。 西楽寺は、かっての後ヶ谷村(うしろがやむら)にあり、地元では「せえらくじ」または「西楽庵」と呼…
2018-10-08 09:46:11
東大和の歴史
廻田谷ッ東遺跡
廻田谷ッ東遺跡廻田谷ッ東遺跡発掘現場 クリックで大 歴史って楽しいです。 特に古代から中世にかけての遺跡探しは胸を躍らせます。東大和市でも話題が沸騰したことがあります。 2001年7月15日、東大和市内で最初の中世遺跡かと胸をとどろかせる発掘がありました。 狭山丘陵の南麓、湖…
2018-10-04 18:43:11
東大和の歴史
連合戸長役場跡(東大和市高木 明治17年・1884)
連合戸長役場跡(東大和市高木) 高木神社・塩釜神社の正面向かって右側に、土蔵と社務所があります。この地には、明治の頃、市役所の原型とも云える「番組会所」(明治6年)、「連合戸長役場」(明治17年)、「組合村役場」(明治22年)、「大和村役場」(大正8年)が置かれていました。土蔵は…
2018-10-02 11:30:33
東大和の歴史
狭山村(さやまむら)の誕生(東大和市・地租改正・明治8年)
狭山村(さやまむら)の誕生(地租改正・明治8年) 狭山神社周辺から霊性庵、東邦団地、西武団地、村山貯水池一帯が狭山村をつくった旧地です。狭山神社全景 参道は村山貯水池に沈んだ地域への主要交通路であった クリックで大 貯水池に沈んだ地域に「宅部村」、丘陵の谷ッに「後ヶ谷村」がありま…
2018-09-25 16:45:30
東大和の歴史
戸籍の編製と戸籍区(韮山一ノ区など)
戸籍の編製と戸籍区(韮山一ノ区など) 明治4年(1871)4月5日、明治政府は「府藩県一般戸籍ノ法」を公布しました。いわゆる明治の壬申(じんしん)「戸籍」です。 これまでの宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)よる村人の状況把握をやめて、家を単位にして住んで居る場所を基本として「…
2018-09-24 09:11:26
東大和の歴史
明楽寺の番組会所と神奈川県所属(明治4年)
明楽寺の番組会所と神奈川県所属(明治4年)番組会所跡に残る現在の土蔵・高木神社収蔵庫 クリックで大高木神社・塩釜神社の社殿の東側です。社務所との間に土蔵があります。 目立ちませんが、東大和市の明治初期を象徴する貴重な歴史遺産です。・独立性の強い七つの村が集まって、現在の東大和市域…
2018-09-23 12:08:03
東大和の歴史
相次ぐ蔵敷村・小川村寄場組合の成立
相次ぐ蔵敷村・小川村寄場組合の成立(明治2年・1869~3年・1870)1県が所管する村の管轄替え明治2年、県の所管する村の管轄替えによる東大和市域の村々 クリックで大 明治2年から4年にかけて、またまた、村人達は所属県の騒動に巻き込まれます。県が所管する村の管轄替えです。 …
2018-09-19 10:05:28
東大和の歴史
明治時代の東大和 東大和市郷土博物館企画展示
明治時代の東大和 東大和市郷土博物館企画展示 2018年9月15日~10月21日会場入り口 クリックで大 楽しみにしていた明治時代の東大和、行ってみました(2日目)。 東大和市立郷土博物館1階の展示会場です。 入り口右側に椅子が置いてあって、朗読劇「東大和の自由民権運動とそ…
2018-09-16 15:13:45
東大和の歴史
大がかりな所沢寄場組合(八州廻り・文政の取締改革)
大がかりな所沢寄場組合(八州廻り・文政の取締改革) 当初は、村人達の反発もあった八州廻りは、費用や協力体制の上から、次第に定着します。そして、狭山丘陵の南麓には、文化4年(1807)、早々と浪人取締組合村が設置されていました。1800年代、村の荒廃は更に進んだようです。武蔵村山市…
2018-09-14 18:55:57
東大和の歴史
八州廻りと浪人取締組合の設置(文化4年・1807)
八州廻りと浪人取締組合の設置(文化4年・1807)荒れる村江戸時代入り乱れる領主 クリックで大 天明の飢饉以降、1700年代の後半になると村は様変わりしたようです。 借金で困ってどうしても耕地を手放さなくてはならなくなる農民が出てきます。すると、いつの間にかその土地が村の有力者…
2018-09-10 14:52:05
東大和の歴史
明治時代の東大和(東大和市立郷土博物館企画展示・関連イベント)
東大和市立郷土博物館催物案内2018 明治時代の東大和9月15日(土)~10月21日(日) 今年は明治150年、五日市憲法発見50年になります。東大和郷土博物館ではその記念事業として・平成30年9月24日(月)午前9時30分~11時30分・講演会 東大和の自由民権運動と千葉卓三郎…
2018-09-10 05:36:42
東大和の歴史
朗読劇 東大和の自由民権運動とそれを支えた人々
朗読劇 東大和の自由民権運動とそれを支えた人々朗読劇のタイトル クリックで大今年は明治150年、五日市憲法発見50年になります。東大和郷土博物館ではその記念事業として ・企画展示と共に ・平成30年9月24日(月)午前9時30分~11時30分 ・講演会 東大和の自由民権運動と千…
2018-08-20 02:15:54
東大和の歴史
韮山県と品川県を行ったり来たり (明治の最初に属した県)
韮山県と品川県を行ったり来たり (明治の最初に属した県) 幕末から明治初年にかけて、東大和市域の村人は 「いってえ、おら方はどうなんのよ?」 と、新しい府県制度に戸惑いました。 慶応4年(1868)閏4月27日、政体書が公布され、地方支配の機構が定められました。版籍奉還、廃…
2018-08-20 00:26:45
東大和の歴史
幕末の村の領主様(安政2年・1855)
幕末の村の領主様(安政2年・1855) 東大和市域の幕末の村の姿です。一般的な様子は『新編武蔵風土記稿』などに描かれますが、今回は視点を変えて、村の領主・支配関係から紹介します。安政2年東大和市域内村の統治状況 クリックで大安政2年(1855)3月、東大和市域には次の7ヵ村があり…
2018-07-18 09:39:27
東大和の歴史
テレスケ太鼓と夜学 「報恩感謝之記額」
テレスケ太鼓と夜学 「報恩感謝之記額」 狭山神社、社殿正面左側の上の方に「報恩感謝之記」の額が奉納されています。「報恩感謝の記」 クリックで大 標題から難しい字ですが、奉納者は「共励学会々員」で、明治34年(1901)の日付があります。時を経たため、読みにくくなって、現地での解読…
2018-07-15 10:26:20
東大和の歴史
内堀先生の碑(東大和市狭山)
内堀先生の碑 狭山神社の表参道左側、狭山公民館前に碑があります。 狭山地域の教育者として名高い「内堀先生の碑」です。狭山神社表参道左側、狭山公民館前に立つ内堀先生の碑 クリックで大 この地は明治の学校「高狭学校」「第三村山尋常小学校」のあった場所でした。 クリックで大 内堀…
2018-07-14 10:06:47
東大和の歴史
日月神社跡(東京都東大和市)
日月神社跡(東京都東大和市) 日月神社旧地碑付近の図 クリックで大 青梅街道奈良橋交差点を左折して間もなくです。JA東京みどり東大和店の前に信号機があり、直進(青梅街道)、左斜め(旧街道)、右折(狭山丘陵・湖畔地区)の三つに道が分かれます。信号を右に曲がって約180メートル、左側…
2018-07-09 12:07:06
東大和の歴史
二つの神社に属する摂社(東京都東大和市)
二つの神社に属する摂社(東京都東大和市) 奈良橋の「諏訪」「八坂」「厳島」神社について奈良橋村神社 クリックで大・東大和市内の奈良橋地域に二つの神社に属する共通の摂社がありました。 ・摂社は三社で、それぞれに例祭日が決まっていました。 ・三社は二つの神社の神主さんが共におつとめ…
2018-07-06 00:50:15
東大和の歴史
八幡神社社務所結婚式場建設記念碑(東京都東大和市)
八幡神社社務所結婚式場建設記念碑(東京都東大和市) 表参道から石段をあがり、第一の鳥居をくぐると左側に社務所があります。その奥に「社務所結婚式場建設記念碑」があります。 社務所・結婚式場建設の経過と共に、八幡神社の境外にまつられていた「諏訪」「八坂」「厳島」の神社について、非常…
2018-06-30 10:08:42
東大和の歴史
八幡神社社殿改築記念碑(東京都東大和市)
八幡神社社殿改築記念碑 八幡神社本殿右横に「八幡神社社殿改築記念碑」があります。 八幡神社の歴史を語り、旧地頭が本殿の建立に関わったことを綴る貴重な記念碑です。 八幡神社社殿改築記念碑の所在位置 クリックで大八幡神社社殿改築記念碑 表面 クリックで大八幡神社社殿改築記念碑 裏面…
2018-06-27 12:26:04
東大和の歴史
八幡神社の歴史(東京都東大和市)
八幡神社の歴史(東京都東大和市) 八幡神社は奈良橋地域の鎮守として親しまれています。年代は不詳ですが中世に、譽田別命(ほんだわけのみこと)を祭神として創建されたと伝えられます。 境内は広く、鎌倉街道と伝わる表参道から石段を上がり境内に入ります。第一の鳥居、第二の鳥居を経て、広い…
2018-06-17 09:57:59
東大和の歴史
八幡神社3(東京都東大和市)
八幡神社3(東京都東大和市)本殿前庭から本殿 石段をあがり、第二鳥居をくぐると広い本殿前の庭に出ます。クリックで大 本殿前の庭 左から「八幡神社改修資金奉納者」「八幡神社社殿改修記念碑」「北多摩神道青年会による由緒」 「本殿」「石祠(庖瘡神)」「ご神木の根」「物置」本殿裏に「浅間…
2018-06-15 07:19:54
東大和の歴史
八幡神社2(東京都東大和市)
八幡神社2(東京都東大和市)第二鳥居から本殿へ第二鳥居から本殿に向かいます。明神型鳥居(石造) 昭和10年(1935) クリックで大 第二鳥居をくぐると右脇に境内社が二社あります。左 神明社 右 武内社 クリックで大神明社正面 クリックで大神明社右側面 クリックで大 左画像右前…
2018-06-14 02:58:21
東大和の歴史
八幡神社1(東京都東大和市)
八幡神社1(東京都東大和市)表参道から第二鳥居まで 所在地 東京都東大和市奈良橋1-256 祭 神 譽田別命(ほんだわけのみこと)他 創 建 不詳 境内社 石祠・大六天社、御嶽社、石祠・蚕影社、不明1、武内社、神明社、石祠・庖瘡神、石祠・富士浅間社八幡谷戸 正面の峰に八幡神…
2018-06-10 10:05:31
東大和の歴史
吉岡堅二素描展
東大和市立郷土博物館催物案内2018 吉岡堅二素描展7月21日(土)~9月2日(日)(クリックで大きくなります)(クリックで大きくなります)東大和市立郷土博物館催物案内へ
2018-06-10 09:54:56
東大和の歴史
宇宙への第一歩
東大和市郷土博物館催物案内2018年 夏のプラネタリウム番組 宇宙への第一歩6月17日(日)~9月9日(日)(クリックで大きくなります) (クリックで大きくなります) 東大和市郷土博物館催物案内へ
2018-06-04 09:42:12
東大和の歴史
奈良橋地域の神社 (東京都東大和市)
奈良橋地域の神社 (東京都東大和市) 奈良橋地域を歩くとお稲荷様や石造物が沢山目に入ります。しかし、一般の方がお参りするのは八幡神社です。八幡神社が唯一と言って良いようです。地元の方は「昔は諏訪山にも日月山にも神社があっただ」と言われます。それが、一社になったのはなぜなのでしょ…
2018-05-20 00:37:14
東大和の歴史
高木神社の歴史(東京都東大和市)
高木神社の歴史(東京都東大和市)高木神社 クリックで大所在地 東大和市高木二丁目104番地祭 神 社殿改築記念碑では高皇産霊神(たかむすびのかみ)『狭山の栞』 では手力雄命(たじからおのみこと)社 名 中古 尉殿大権現(じょうどのだいごんげん) 明治2年(1869)尉殿大神(じょ…
2018-05-17 07:41:04
東大和の歴史
清水神社の歴史
清水神社の歴史新築なった社殿 クリックで大所在地 東大和市清水三丁目-786御祭神 素盞嗚尊・大己貴尊・稲田姫命創 建 建保2年(1214)、江戸時代地誌は創建不詳建 替 現社殿は平成22年(2010)に建て替えられました。清水神社は村山貯水池建設に伴い・大正8年(1919)年頃…
2018-05-13 07:00:11
東大和の歴史
清水神社
清水神社清水神社全景 クリックで大所在地 東大和市清水3-786御祭神 素盞嗚尊・大己貴尊・稲田姫命(氷川社の御祭神、熊野神社の御祭神は不詳)大 祭 9月15日境内末社 本殿左横の社に石祠が二つまつられています。東大和市史は「境内には末社として稲荷社、愛宕社を祭祀する」とあります…
2018-05-08 10:22:38
東大和の歴史
庚申神社
庚申神社庚申神社所在地 クリックで大所在地 清水三丁目869番地東大和市清水に、庚申神社・三角神社と呼ぶ社がまつられているところがあります。清戸街道と清水神社方面から江戸街道に通じていた道の交差する三角地です。中世から江戸時代にかけての交通の要所でした。庚申神社2013年9月14…
2018-05-04 10:31:49
東大和の歴史
三光院
三光院新青梅街道からの三光院山門クリックで大所在地 清水四丁目1232番地(旧地 村山下貯水池の湖底に沈んだ清水地域)宗 派 新義真言宗、豊山派。輪王山三光院 本尊・阿弥陀如来。狭山三十三観音第十六番、多摩四国八十八ヶ所第三十九番の札所です。三光院の最寄駅は西武多摩湖線武蔵大和駅…
2018-04-30 00:57:39
東大和の歴史
第十五番清水観音堂
第十五番清水観音堂東大和市域最初の狭山三十三観音の札所です。十四番瑞光山法珠寺(東村山市)から西に向かって500メートル程です。十五番清水観音堂 右の路が十四番から、左奥への路が十六番へのかっての順礼道クリックで大所在地 清水一丁目755番地本 尊 聖観音詠 歌 月影も 清くう…
2018-04-27 02:26:00
東大和の歴史
三光院観音堂(狭山三十三観音第十六番札所)
三光院 観音堂狭山三十三観音霊場 第十六番札所 三光院クリックで大狭山三十三観音第十六番札所です。 所在地 清水四丁目1132番地(三光院境内) 本 尊 千手観音 詠 歌 補陀落や 大慈大悲の 慈眼坂 来り迎うる 弥陀の三尊御朱印は三光院で頂けます。御朱印 クリックで大…
2018-04-23 23:31:40
東大和の歴史
御霊神社
御霊神社村山貯水池の湖底に沈んだ区域に、江戸末期戸数28戸、明治12年(1879)氏子数98戸の内堀と呼ばれる集落がありました。村人達は「内堀村」を名乗りたかったようですが、江戸時代から明治8年(1875)まで「宅部村」(やけべ)と命名されていました。その産土神・鎮守が御霊神社で…
2018-04-19 05:18:19
東大和の歴史
円乗院
円乗院所在地 狭山三丁目 1354番地新義真言宗、智山派。本尊・不動明王。 愛宕山医王寺圓乘院東円坊。 円乗院全景 左 錐鑽不動尊碑 右 武蔵野三十三観音第八番 多摩四国八十八ヶ所第三十八番札所碑クリックで大狭山丘陵の中腹に位置する平安時代末期の創建を伝えるお寺です。市内の寺院の…
2018-04-18 02:33:06
東大和の歴史
円乗院7-2 本堂左側の石造物
円乗院7-2 本堂左側の石造物円乘院本堂左側に石造物が並んでまつられています。元禄7年(1694)の地蔵尊は東大和市内で二番目に古い地蔵尊です。二つの石灯籠があります。いずれも神様と仏様が一緒に信仰されていた神仏習合時代のものです。円乘院の山号を愛宕山とするように、山内鎮守・愛宕…
2018-04-15 01:29:11
東大和の歴史
殉国産業戦士供養塔(円乗院7-1)
殉国産業戦士供養塔(円乗院7-1)円乗院の本堂左奥には、忘れてはならない第二次世界大戦中に係わる供養塔の一つがあります。千体地蔵尊に見守られるようにまつられています。現在の桜が丘、立野地区に起こった痛ましい戦争の犠牲に関する供養塔です。殉国産業戦士供養塔 クリックで大円乗院にまつ…
2018-04-14 00:36:21
東大和の歴史
円乗院7 本堂左側
円乗院7 本堂左側円乘院本堂左側地域クリックで大円乘院本堂左側地域には千体地蔵尊他多くの石造物がまつられています。特に、江戸時代初期の地蔵尊、神仏習合時代の灯籠もあり、円乘院の歴史を深く語りかけます。奉献為宗祖弘法大師1150年諱(き)供養記念碑 クリックで大宗祖弘法大師1150…
2018-04-12 03:08:36
東大和の歴史
円乗院6 本堂
円乗院6 本堂鐘楼門からの参道を直進すると本堂への石段があります。本堂への参道 クリックで大本堂正面 クリックで大本堂にはこの寺の歴史を語る多くの仏様が居られます。現在は不動尊を本尊としますが、当初は薬師如来で、寺伝によれば次のような経過を経て現在に到りました。・古くは延寿院と呼…
2018-04-10 07:39:53
東大和の歴史
円乗院 6 中庭左側2
円乗院 6 中庭左側2円乗院中庭左側は丘陵の峰からの斜面になっています。そこに、聖観世音菩薩像、弘法大師像、円乗院中興第四十五世大僧正小峰正存和尚寿像、祖恩報謝塔などがあります。斜面に置かれる諸像 クリックで大 弘法大師像、小峰正存像へは本堂への石段、登り際の左側にある…
2018-04-10 07:39:53
東大和の歴史
円乗院 5 中庭左側2
円乗院 5 中庭左側2円乗院中庭左側は丘陵の峰からの斜面になっています。そこに、聖観世音菩薩像、弘法大師像、円乗院中興第四十五世大僧正小峰正存和尚寿像、祖恩報謝塔などがあります。斜面に置かれる諸像 クリックで大 弘法大師像、小峰正存像へは本堂への石段、登り際の左側にある…
2018-04-09 03:28:09
東大和の歴史
円乗院 転法輪(てんぽうりん)碑
円乗院 転法輪(てんぽうりん)碑転法輪碑クリックで大円乗院中庭左側に「転法輪」碑があります。随分前のことです。職場の上司でもあった住職さんに伺いました。「どう云う意味ですか」「難しいことは本で調べてよ。要は、仏様が道を示されて、我々の迷いを強力に打ち払って下さるってこと。ようやく…
2018-04-09 03:28:09
東大和の歴史
円乗院4-1 転法輪(てんぽうりん)碑
円乗院4-1 転法輪(てんぽうりん)碑転法輪碑クリックで大円乗院中庭左側に「転法輪」碑があります。随分前のことです。職場の上司でもあった住職さんに伺いました。「どう云う意味ですか」「難しいことは本で調べてよ。要は、仏様が道を示されて、我々の迷いを強力に打ち払って下さるってこと。よ…
2018-04-08 10:35:32
東大和の歴史
円乗院 4 中庭左側1
円乗院 4 中庭左側1円乗院中庭の左側全景 クリックで大円乘院の本堂から左・西側に当たる地域です。手水舎の近くには池があり、狭山丘陵の峰からの斜面には、江戸時代初期の五輪塔、市内では珍しい聖徳太子座像、弘法大師、聖観音菩薩、大僧正小峰正存像などがまつられています。西側門から入って…
2018-04-08 10:35:32
東大和の歴史
円乗院 4 中庭左側1
円乗院 4 中庭左側1円乗院中庭の左側全景 クリックで大円乘院の本堂から左・西側に当たる地域です。手水舎の近くには池があり、狭山丘陵の峰からの斜面には、江戸時代初期の五輪塔、市内では珍しい聖徳太子座像、弘法大師、聖観音菩薩、大僧正小峰正存像などがまつられています。西側門から入って…
2018-04-06 10:17:46
東大和の歴史
円乗院 宝篋印塔
円乗院 宝篋印塔(ほうきょういんとう)お釈迦様と宝篋印塔 クリックで大円乗院の鐘楼門をくぐり参道を直進するとお釈迦様の像と並んで右側に宝篋印塔があります。この塔について、円乗院では次のように説明をしています。「第三十四世法印兊重(文化 14年(1817 )8月 16日示寂)は、天…
2018-04-06 01:42:09
東大和の歴史
円乘院 3 中庭正面
円乘院 3 中庭正面中庭からの全景 右側が鐘楼門からの参道です。クリックで大鐘楼門からの短い参道を経て数段の石段を上がると中庭に出ます。「開運招福」の絵馬がかけられた松クリックで大「開運招福」の絵馬 クリックで大参道をそのまま進むと右側の松に「開運招福」の絵馬がかけられています。…
2018-04-05 00:37:26
東大和の歴史
円乗院 2 (鐘楼門を入る)
円乗院 2(鐘楼門を入る)鐘楼門を入ります。クリックで大正面に本堂が見え、目の前右側に「東やまと20景」の表示、参道両脇に6体の微笑ましい地蔵尊が目につきます。東やまと20景 17番 円乗院クリックで大「東やまと20景」 は市制施行20周年を記念して1990年に制定されました。市…
2018-03-31 07:01:39
東大和の歴史
前野稲荷
現在の狭山神社全景クリックで大狭山神社本殿の石段を登ると右側に稲荷社があります。明治政府による「一つの村に主要な神社は一社とする」との方針によって、明治39年(1906)、狭山神社境内に遷されました。それまでは、江戸時代からの新田開発による畑が続く南の前野の呼ばれる地域(現・第四…
2018-03-30 10:10:53
東大和の歴史
山の神が原にまつられた
現在の狭山神社全景クリックで大狭山神社本殿の石段を登ると左側に山神社があります。歴史的には村人達が居住地としていた狭山丘陵南麓から遙か南の畑が続く一角にまつられていました。いつ頃からまつられたのか創建年代については、古書が『新編武蔵風土記稿』山神社クリックで大・山神社 除地、五段…
2018-03-29 07:11:29
東大和の歴史
幕府御用船と神明社の大欅
かって、明治39年(1906)まで、この地に神明社がありました。狭山二丁目、志木街道が新道と旧道の交差する場クリックで大神明社跡地 現・東大和市消防団第二分団詰所右方向志木街道 左上方向 狭山神社を経て狭山丘陵へ神明社は移転する前までは鬱蒼とした森に包まれていました。幹周り4㍍ほ…
2018-03-28 10:43:45
東大和の歴史
神明社跡 狭山
狭山二丁目、志木街道が新道と旧道の交差する場クリックで大狭山二丁目の志木街道が新道と旧道の交差する角です。現在、東大和市消防団第二分団詰所があります。右方向は武蔵大和駅~東村山駅を経て志木市に達します。左の道は狭山神社を経て村山貯水池に沈んだ旧村に達していました。神明社跡地の碑が…
2018-03-25 09:12:39
東大和の歴史
霊性庵の石造物4(墓地右奥)
正面参道から墓地に入り右側に向かいます。霊性庵墓地右奥方向クリックで大一番奥に、両墓制の関連石造物と巡礼供養塔があります。墓所合祀五輪塔、墓所合祀五輪塔之碑 巡礼供養塔クリックで大昭和36年(1961)土葬禁止条例が定められる以前、この地では遺骸の埋め墓(第一次の墓地)と追善仏事…
2018-03-25 00:46:02
東大和の歴史
霊性庵の石造物3(観音堂北側)
観音堂北側の石造物観音堂北側に7体の石造物があります。堂の正面から見て左と右に裏側に回れる細い空地があります。どちらからでも裏側に回れます。画像は右から回ったところからのものです。いずれも狭山地域内の他の地域から移されてきました。クリックで大馬頭観音1(天保5・1834年2月)ク…
2018-03-19 10:44:14
東大和の歴史
霊性庵の石造物2(正面石段上)
正面石段を登って左側の石造物クリックで大正面石段上の石造物正面石段を登ると左側に石造物がまつられれています。左側から大日如来石碑 六十六部廻国供養塔1 六十六部廻国供養塔2 地蔵菩薩像 双体(双立)地蔵菩薩像です。いずれも、狭山村の各地にまつられていたものが、この地に移されました…
2018-03-18 06:59:05
東大和の歴史
霊性庵の石造物1(正面石段付近)
正面石段付近の石造物正面石段からの石造物クリックで大大日如来他4体の石造物は狭山の各地域にまつられていました。道路の拡幅や村山貯水池の建設に伴い、湖底に沈んだ地域からも移されています。図のように観音堂再建記念供養塔六地蔵尊1六地蔵尊2大日如来他4体があります。大日如来他4体の石造…
2018-03-15 22:54:18
東大和の歴史
霊性庵(狭山三十三観音一七番札所)
狭山三十三観音の17番札所です。地元では嶺松庵とも云います。『新編武蔵風土記稿』は観音堂 字南分にあり、二間半に五間、南向、如意輪の座像木にて作る、丈八寸許り、古碑 一基 長二尺余、貞治七戊申四月十九日とあり、『狭山之栞』は嶺松庵観音堂は狭山南峰の枝峰の出鼻に在り。圓乗院の持に…
2018-03-12 00:29:48
東大和の歴史
狭山神社の歴史
江戸時代狭山地域(後ヶ谷村・宅部村)の神社位置図クリックで大狭山神社は幾多の経過を経て現在に到っています。創建時は天狗大明神としてまつられました。その年代は不明です。まず、左図をご覧下さい。江戸時代の狭山地域(当時は後ヶ谷村、宅部村)の神社の位置図です。村人は各所に神祭りをしてい…
2018-03-09 10:27:37
東大和の歴史
狭山神社(さやまじんじゃ)
東大和市狭山地域の氏神様(うじがみ)、産土様(うぶすな)です。毎年、1月1日の元旦際から始まって12月23日のカマジメまで、いろいろな行事に人々が集まります。9月の第2土曜から日曜日にかけて、秋の大祭が催され、大賑わいとなります。創建は明らかではありませんが様々な歴史をもっていま…
2018-02-22 06:13:29
東大和の歴史
石神の話(東大和のよもやま話)
村山下貯水池 石神様は奥の方の取水塔の辺りにまつられていました。クリックで大村山下貯水池の建設とともに、湖底に沈んだ上宅部に伝わる話です。下の堤防から二つの取水塔が見えます。その奥の方に近いところでした。そこは、石塔前という特別の名前で呼ばれていました。村人達にとって、大事な大事…
2018-02-20 09:52:03
東大和の歴史
かたき討の話(東大和のよもやま話)
敵討ちが行われた蔵敷三本杉クリックで大天保年間、天候が安定せず、飢饉、物価高が続きました。80%の村人達が飢えて、お互いに融通し合って過ごす中で、行き倒れや捨て子の記録とともに、長脇差や刀を帯びた「無宿」や「渡世人」が渡り歩いたことが伝えられます。敵討ちのあった周辺図クリックで大…
2018-02-18 10:41:58
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 5 近世 4 荒れる村
1踏んだり蹴ったりお犬様狭山丘陵周辺の生類憐れみの令 延宝8年(1680)8月、五代将軍に綱吉が就任します。武蔵野開発に力を入れた三代将軍家光の四男です。放漫になりかけていた幕制改革に着手しました。一方で、生類憐れみの令により、犬猫の緊縛禁止、殺傷禁止令を出します。東大和市域の村…
2018-02-12 10:30:48
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 5 近世 3生産性の低い新田 農間稼ぎ
玉川上水・野火止用水の出現に東大和市域の村人達も新田開発に大わらわ20年で野火止用水際まで達成クリックで大1 空堀川までが日常生活圏早くに済ませた新田開発 一般的に大々的な武蔵野の新田開発は享保7年(1722)、江戸日本橋高札場に掲げられた武蔵野新田開発奨励のお触れ以降急速に進ん…
2018-02-09 00:30:32
東大和の歴史
略年譜 4中世
略年譜4中世円乗院賢誉墓碑1083(永禄3)~1087年(完治元年)後三年の役 宅部「御霊神社」について、鎌倉権五郎景正の家臣寺島小重郎がこの地に棲みつき、主君の霊を祀ったのが創始と伝えられ、小十郎は内堀を名のり神社に奉仕したという。子孫は本山修験の常覚院で神仏分離までは神社の別…
2018-02-05 22:37:18
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 5 近世 2 玉川上水・野火止用水の開削、細長い村
1玉川上水・野火止用水の開削一挙に進んだ江戸の市街地クリックで大江戸市中の整備・家臣団の集住 江戸市中の整備が進むにつれ家臣団が江戸に集住するようになりました。・元和2年(1616)、駿府詰めの家臣団が江戸に移住、神田台を開拓、駿河台と称しました。・寛永元年(1624)、諸大名…
2018-02-03 10:28:51
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 5 近世 1江戸時代初期
1徳川家康の家臣がやって来た八王子城の落城 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻撃により、戦国大名の後北条氏は滅びます。東大和市の周辺では、6月23日、八王子城が前田利家、上杉景勝の攻撃により落城しました。家臣達はそれぞれの地域に帰り、農業に就くなどして、激動の時を迎えま…
2018-01-31 10:41:44
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 4 中世 4北条氏康・氏直~徳川家康
1長尾景虎の関東出陣、三田氏の滅亡長尾景虎の関東出陣 永禄3年(1560)秋、越後の長尾景虎は関東管領山内上杉憲政及び里見義堯・古河公方の子息・足利藤氏などの要請を受け、関東に出陣しました。翌永禄 4年(1561)3月、相模に入り、小田原城を囲みます。陥落させることはできず、武田…
2018-01-27 23:44:40
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 4 中世 3伊勢宗瑞・氏綱~武蔵制覇
1伊勢宗瑞の関東進出地域領主の変化 15世紀中頃、武蔵野は関東の戦国時代と言われるほど戦乱が続きました。鎌倉公方足利持氏と上杉氏の間の争いが続いた享徳の大乱(1455~1483)は、武蔵の勢力に、これまでとは異なったより広域な地域領主を生む変化をもたらせました。上杉氏の独壇場 足…
2018-01-20 10:41:14
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 4 中世2 南北朝~室町時代
元弘3年(1333)新田義貞鎌倉攻めの際の武蔵での合戦クリックで大1 新田義貞鎌倉攻めの時新田義貞挙兵 元弘3年(1333)、 後醍醐天皇の倒幕の綸旨をもとに新田義貞が挙兵、兵を南下させました。義貞軍と鎌倉幕府軍は、小手指原(所沢市)、久米川(東村山市)、分倍河原(府中市)で相ま…
2018-01-18 02:16:03
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 4 中世 1
狭山丘陵周辺の中世は明確な指標による区分が難しく、次の3区分で紹介します。中世1 頼朝の旗揚げ~鎌倉幕府の終焉まで中世2 南北朝~室町幕府=足利氏~上杉氏中世3 戦国時代=後北条氏~豊臣秀吉中世1 源頼朝の旗揚げ~鎌倉幕府の終焉までクリックで大(1)村山党治承4年(1180)、源…
2018-01-11 22:26:26
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 3 古代
古代1古墳時代東国古墳の位置図クリックで大 300年代から600年代にかけて、・南の多摩川沿いには全長110メートルの芝丸山古墳(初期前方後円墳)をはじめとする一連の南武蔵の古墳群・北には4世紀末と考えられる全長115メートルの野本将軍塚古墳を含む北武蔵の埼玉古墳群・利根川沿いに…
2018-01-08 07:25:49
東大和の歴史
おおまかな歴史の流れ 2 原始
原始1旧石器時代村山貯水池内で採集された石器 槍先に使われました。クリックで大東大和市の地域に人が住み始めたのはいつ頃でしょうか? 現在のところ、約2万年前とされます。というのはその時代の石器が発見されているからです。狩猟と採集の生活の中、獲物を捕らえる貴重な道具であった槍の先に…
2018-01-08 07:25:49
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 2 先史
先史1旧石器時代村山貯水池内で採集された石器 槍先に使われました。クリックで大東大和市の地域に人が住み始めたのはいつ頃でしょうか? 現在のところ、約2万年前とされます。というのはその時代の石器が発見されているからです。狩猟と採集の生活の中、獲物を捕らえる貴重な道具であった槍の先に…
2018-01-07 03:27:15
東大和の歴史
大まかな歴史の流れ 1 地質
1東大和市は海の中にあった『東大和市市史』『東大和市史資料編』クリックで大「その話、本当なんですか?」最初に返ってくる一言です。村山貯水池の建設工事の時に発見されたマガキの写真の載る市の資料をお見せして、半信半疑のところへ、「それも、一カ所じゃないんです。」と、第一中学校の北側で…
2017-12-23 10:42:59
東大和の歴史
豊鹿島神社狛犬・天犬(あまいぬ)の謎
東大和市所在の豊鹿島神社の本殿に木製の狛犬がまつられています。東大和市の重宝に指定されています。右側阿形(あぎょう) 左側・吽形(うんぎょう)東大和市教育委員会による説明板の像阿形の横姿吽形の後ろ姿 形は優美、色彩豊かで力強かったであろう模様が目をひきます。 この狛犬について東…
2017-12-20 11:04:13
東大和の歴史
玉川上水への通船4 通船の廃止
1沿岸住民の妨害 玉川上水上流部では、通船の主体者となる村々が沿線を占めていましたが、下流部では関わりが薄く、高井戸、笹塚周辺からは妨害行動が起こされています。通船が開始されて間もなくの明治3年(1870) 5月、次の状況があったことを東京市史稿は伝えます。 「当五月二十二日、三…
2017-12-14 02:06:12
東大和の歴史
きつねの嫁どり(東大和のよもやま話)
狭山丘陵には多種の動物が棲み着き、人々と共生していたようです。イノシシは害をもたらすものとされていましたが、狐や狸とはユーモアのある交流が語られます。村山貯水池に沈んだ石川の里(上貯水池の西端)に伝えられるのは「狐の嫁入り行列」です。村山貯水池のできる頃(大正初~昭和2年)です…
2017-12-11 01:11:03
東大和の歴史
玉川上水への通船3 分水口の改正 (水不足が生じてきたか?)
通船の過程で、やがて、東大和市として大きな影響を受ける村山貯水池建設の要因ともなる東京の水不足を伝える出来事が見えてきました。分水口の改正玉川上水は江戸市中への飲料水の供給と共に武蔵野の新田開発をした各地へ飲料水や田用水を分水して地域の生活、生産の基盤となっていました。 分水に…
2017-12-08 10:24:44
東大和の歴史
玉川上水への通船2 明治の通船開始
明治の通船1通船願い 江戸時代末期、商人、名主は玉川上水への通船を願い出ました。幕府も砂利運搬計画をもって上水への筏利用を図ります。この時期に明治維新を迎えました。地元の名主は、明治2年(1869)になると名を連ねて通船願いを提出します。羽村から内藤新宿・四谷大木戸間の舟運です…
2017-12-04 22:52:55
東大和の歴史
玉川上水への通船1 江戸時代
東大和市域にあった江戸時代の村クリックで大明治の3年(1870)から5年(1872)までのわずかな期間でしたが、玉川上水に船を浮かべ物資の運搬が行われました。玉川上水は東大和市のすぐ近くにありながら、直接には接していません。しかし、・野火止用水の取り入れ口に近く・村山貯水池・多摩…
2017-12-03 02:41:12
東大和の歴史
変電所跡 その二 変電所の現状 外部 (東大和指定文化財「市史跡」)
東京瓦斯電気工業(株)、日立航空機(株)立川工場の基本施設が変電所でした。工場の近くまで高圧線で運ばれてきた高圧電流を低圧に変電して工場内に配電する施設です。 昭和20年(1945)2月17日および4月19日、24日の米軍機による工場爆撃で廃墟となった工場跡に奇跡的に残りました…
2017-12-01 12:14:22
東大和の歴史
お目出度う ホームページ一新(東大和市)
生まれ変わった東大和市HPクリックで大 かねてからの予告のHPはどのように変わるのか!! 2017年12月1日、楽しみに訪ねました。イントロページが目をひきます。 市の景観や行事、市民が左から右に動きます。 これが、売りのシティプロモーションのイントロページかと 目をこらします。…
2017-11-30 00:16:47
東大和の歴史
1965・昭和40年のまちの姿(大和町時代)
1965年・昭和40年の大和町の姿を伝える資料に『町勢要覧』があります。 「主な施設の位置」として下の図が掲載されていて、その姿が辿れます。・当時「大和町」でした。1954年・昭和29年、大和村から町になり、1970年・昭和45年、東大和市になります。・新青梅街道は現青梅街道・…
2017-11-23 06:16:41
東大和の歴史
きつねの恩返し
村山下貯水池 二つの取水塔 東村山浄水場へ送水するために設けられています。この周辺に湖底に沈んだ集落の一つの中心がありました。向かって左側の取水塔周辺が「きつねの恩返し」の舞台です。クリックで大 「二つ取水塔があるでしょう。手前の方の近くにさ、村人とキツネが一緒に住んでいたんだ」…
2017-11-20 00:24:28
東大和の歴史
子供みこしのこと
青梅街道のかっての姿を残す蔵敷地区。秋口には灯籠がずらりと並びました。シャン、シャンシャンと賑やかに鈴の音を響かせて御神輿が渡ります。子供の祭りの日です。そのいきさつを『東大和のよもやま話』は次のように伝えます。祭りの夜、灯籠が立ち並んだ蔵敷の青梅街道北側 手前の熊野神社参道か…
2017-11-18 09:31:23
東大和の歴史
狭山丘陵の古狸往生記(よもやま話)
平成29年(2017)3月11日、観光関係の講座で、蔵敷にある「やすじいの農園」(市民が農業に接し楽しむ新しい形の農園)を訪ねたときです。園主の内野氏が「朝早くここへ来ると、この畑の間をタヌキの親子が通るんですよ。きっと、近くに家族で住んでるんですね」と話されました。狭山丘陵か…
2017-11-16 10:22:50
東大和の歴史
火をふところに入れた法印さん(モニュメント)
西武多摩湖線・武蔵大和駅から東大和市方面に向かって最初の広い道(やまもも通り)と交差する武蔵大和駅西交差点を南(新青梅街道、小平市方面)に進みます。武蔵大和駅西交差点 左に曲がる クリックで大現在は工事が終わり景観が異なりますのでご注意下さい。 いずれ画像は新らしいものに交換…
2017-11-15 02:47:42
東大和の歴史
ブランド・メッセージ(東大和市)
東大和市が「ブランド・メッセージ」を定めました。村山貯水池を中心に「東京ゆったり日和」とします。東大和市の「ブランド・メッセージ」東大和市は「ブランド・メッセージは、市の魅力や特長を短い言葉で表したものです。今後、・・・、東京の都市でありながら、ゆったりと落ち着いていて、子育てし…
2017-11-09 10:32:20
東大和の歴史
変電所跡 その一 変電所への電力供給
都立東大和南公園の北口を入ってすぐの広場から変電所の位置を見て振り向くとこの鉄塔が見えます。 鉄塔の建つ場所は立野三丁目、グリーンタウンの南西です。クリックで大東京瓦斯電気工業(株)・日立航空機(株)立川工場の基本施設の一つが変電所でした。工場の近くまで高圧線で運ばれてきた高圧電…
2017-11-05 10:17:57
東大和の歴史
アメリカ軍の空爆により工場壊滅
軍需により拡張を続ける日立航空機(株)立川発動機製作所(以下立川工場)は昭和20年(1945)、米軍の空爆を受けました。工場群は完全に破壊されました。その経過は次の通りです。空襲や米軍による爆撃、工場の壊滅状況などは『東大和市史資料編 1』 に記録されています。昭和20年(19…
2017-11-03 05:51:36
東大和の歴史
工場の疎開
昭和19年(1944)6月、米軍がサイパン島に上陸、日本の戦局は一挙に悪化します。アメリカ軍の直接攻撃を受けるようになりました。11月24日、中島飛行機、武藏製作所がB29の爆撃を受けました。12月には軍部から、工場の疎開命令が出されました。その時の工場は次の図に近いものであっ…
2017-11-02 00:01:19
東大和の歴史
専用鉄道の設置(現・西武拝島線の一部)
現在の西武拝島線、そのうちの小川駅から玉川上水までの間が出来たときの話です。 日立航空機(株)立川工場への専用引き込み線が基になっています。 東京瓦斯(ガス)電気工業(株)から日立航空機(株)立川工場へ移ってから間もない昭和14年(1939)9月1日、第2次世界大戦が勃発しま…
2017-11-02 00:01:19
東大和の歴史
専用鉄道の設置(現・西武拝島線の一部)
現在の西武拝島線、そのうちの小川駅から玉川上水駅までの間が出来たときの話です。日立航空機(株)立川工場への専用引き込み線が基になっています。東京瓦斯(ガス)電気工業(株)から日立航空機(株)立川工場へ移ってから間もない昭和14年(1939)9月3日、第2次欧州大戦が勃発しました…
2017-10-31 10:08:35
東大和の歴史
催し案内(テスト)
公共産業まつり市民文化祭吉岡堅二展公共 博物館・公民館公共 公民館市民の学び市民活動演奏活動
2017-10-26 05:22:44
東大和の歴史
東京瓦斯(ガス)電気工業(株)から日立航空機(株)立川工場へ
日立製作所との合併 昭和14年(1939)5月15日、当時の大和村に工場建設中の東京瓦斯電気工業(株)は日立製作所と合併しました。そして、子会社の日立航空機株式会社を設立しました。合併の理由は国策によるとされます。小松ゼノア社報創業80周年記念号では「日立製作所と合併し(5月)更…
2017-10-21 07:47:50
東大和の歴史
東京瓦斯(ガス)電気工業(株)の工場建設
昭和13年(1938)村の南端、松と雑木林、一面の畑の中に工場と社宅の建設が始まりました。クリックで大村山貯水池の建設の影響を受けて、村の運営にも経済的な危機が押し寄せていた昭和13年(1938)のことです。松林と一面の畑が広がる村の南端の地に、工場建設の動きが起こりました。東大…
2017-10-19 00:09:31
東大和の歴史
日立航空機(株)付属青年学校跡
今では、想像も出来ませんが、画像の位置に「青年学校」がありました。昭和14年(1939)に日立航空機株式会社の工場の付属施設として設けられました。戦時中の教育施設です。全国から青少年が集められました。この学校で学び、戦時下の青春をこの地に焼き付けた若者が一時は約3000人以上生…
2017-10-17 11:50:39
東大和の歴史
へびのステッキ(モニュメント)
南街五丁目、道が十字に交差する角のそれぞれに公園があります。 栄(さかえ)公園と呼ばれます。その中の一角(画像右側)です。栄公園(クリックで大)すべり台や砂場、鉄棒があり、何よりも自然の地面であることが喜ばれます。ここに、一体のモニュメントが置かれています。栄公園 クリックで大…
2017-10-15 00:41:10
東大和の歴史
つけ木受け取りメモ(モニュメント)
向原四丁目、上仲原公園から用水北緑地を南方向に、あるいは、用水北通りから北に入って間もなく、緑地と道の交差する一隅に「つけ木受け取りメモ」はあります。左上の道路が上仲原公園方面、手前道路右方面けやき通り、左・市民会館・ハミングホール方面クリックで大モニュメント「つけ木受取りメモ…
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2024-09-22
第54回 東大和市民文化祭が開催されます!
2024-03-07
狭山公民館の展示・発表会が開催されます!
2024-02-24
東大和市の昔と今を記録しよう!展示中
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